村上源氏

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久我通光 久我通基

 鎌倉時代の公卿・歌人。内大臣源通親の3男であるが、異父姉である承明門院が土御門天皇を生んだために嫡男となった。一般的には久我家の祖と考えられている。新三十六歌仙の一人。子に通平・通忠・宣通・通能・雅光・中院雅忠・六条通有・道朝・女子(式乾門院御匣)がいた。
父が亡くなった建仁2年(1202年)に公卿となり、建保7年(1219年)に内大臣に任じられて、異母兄堀川通具を越して昇進する。承久の乱の折に後鳥羽上皇の皇子・雅成親王の義父だった事から、鎌倉幕府から隠居を命じられる。だが、その後も密かに隠岐国の後鳥羽上皇と連絡を取り合っていたと言われている。後に後嵯峨天皇の大叔父として、弟の土御門定通とともに権勢を振るい、寛元4年(1246年)12月24日に西園寺実氏の後任として従一位太政大臣に昇った。
15歳の時に歌合(「千五百番歌合」)への参加を許されて『新古今和歌集』などの勅撰和歌集に収められるなど当代を代表する歌人の一人でもあり、また琵琶に優れていたなど才気に溢れた人物として知られた。

 建長2年(1251年)に父・通忠が没した時には11歳であった。祖父・久我通光は後室三条に遺産の大半を託したため、父からの遺領は唯一、久我荘のみであった。このため、父の死後、経済的危機に立たされることとなった。しかし、父・通忠の後室である安嘉門院左衛門督局(平頼盛の孫)が、父・光盛から継承した池大納言領を久我家に譲与し、その経済的危機を救った。
 源通親の子供たちが薨去して各家の分立が始まり、各家の第2世代第3世代となるに従い、久我家が村上源氏中の嫡流として確固たる地位を確立できなくなってきていた。建長2年(1250年)には堀川具実が内大臣となったことを手始めに、中院通成,堀川基具,土御門定実たちが相次いで従一位や大臣に昇っている。通基の父・通忠が大納言右大将のまま早世したことや祖父通光の所領の大半を久我家が引き継げなかったなかで、通基が危機感を抱き村上源氏一門の中で優位性を確立する事をねらい源氏長者の宣下を望んだ。しかしせっかく源氏長者を得た直後に、伏見天皇中宮となった西園寺鏱子の父である西園寺実兼を大臣大将に任じるため、通基は内大臣だけでなく約10年間在任した右大将も止めさせられてしまう。
 近衛大将には通基の時代までは村上源氏一門では久我家からしか就任していないが、通基薨去の2年前である嘉元4年(1306年)には基具の息男である具守が右大将に就任する。そのような状況の中で通基の息男通雄の時代に再び所領問題を発生させることになり、鎌倉時代を通じて久我家は困難な状況が続いた。
 一方で、通基は4人の息男を公卿に昇らせることができた。嫡男の通雄は二位中将から権中納言に任ぜられ、通基自身の右大将在任期間は通算約10年間になる。源氏長者の宣下と合わせて、通基は村上源氏一門の中で久我家が一歩抜きん出ることができるよう着々と手を打っていたと見ることができる。
 『徒然草』第195段と196段に通基は登場する。195段では田に木造の地蔵を浸して丁寧に洗っているという、一見平和なしかし奇妙な姿の通基であるが、196段では行事の作法での実に的確な判断と右大将を歴任してきた久我家当主の通基が描かれている。

親玄 後深草院二条

 真言宗の僧侶。醍醐寺の親快の門人で建治2年(1276年)に師が没すると同寺の地蔵院を継承した。ところが、彼の継承に反対する僧侶との争いに巻き込まれ、正応2年(1289年)以前に鎌倉に下向して、将軍久明親王および執権北条貞時の護持僧となった。
 鎌倉幕府の信任が厚く、永仁6年(1298年)にその推挙で醍醐寺座主に任じられて程なく上洛、正安元年(1299年)に一旦座主を辞するも、嘉元元年(1303年)に再任されて同3年(1305年)に座主を辞任して再び鎌倉に下っている。徳治元年(1306年)に鎌倉滞在のまま東寺長者・大僧正に任じられるが、東寺長者は翌年辞任している。晩年は鎌倉の永福寺の別当を務めた。
 『親玄僧正日記』と呼ばれる日記を残しているが散逸して、現在は醍醐寺に正応3年(1292年)より3年分が現存している。現存する期間は、鎌倉大地震や平禅門の乱と重なっており、当時の幕府や鎌倉の宗教界の状況を知る史料となっている。

 『とはずがたり』の作者とされている。後深草院の女房であり愛人。
 後深草院の寵愛を受けながらも「雪の曙」(西園寺実兼とされる)、「有明の月」(仁和寺御室性助入道親王・法助法親王の両説あり)、亀山院らとの関係を『とはずがたり』で赤裸々に綴った。
 26歳の年、後深草院の中宮である東二条院の排斥にあい一旦御所を退くも、その2年後大宮院(後嵯峨中宮、後深草・亀山両天皇の母)の女房として再び出仕。その後出家し、修行の旅に出て、東国西国の各地の寺社を詣でる。