父は六条家の祖である右近衛大将六条通有、従一位内大臣にまで昇った。 村上源氏の名門の出であるが、幼くして父・通有が病死する。通有は未だ正四位下右近衛大将であったために出世は望めなかった。このため、公卿である従三位非参議となったのは48歳の時であった。ところが、大覚寺統の後宇多上皇が院政を開始すると院近臣として登用されて急速に昇進し、正安3年(1301年)に左大弁兼参議となると、嘉元元年(1303年)には権中納言に昇進して後に院伝奏を兼ね、延慶元年(1308年)には権大納言に達した。また、二条為世に師事して和歌を学ぶ。『増鏡』には「この中将才かしこくて末の世にはことの他にもてなされて・・・」と記され、当時の歌壇では寵児的存在だったと推察されている。為世とともに大覚寺統側の歌壇で活躍し、その影響下で『野守鏡』を著し、持明院統側の京極為兼の歌を激しく論難した。その後、政権が持明院統に移ったために再び不遇となるが、文保2年1月11日(1318年2月12日)には従一位に叙せられる。 翌元応元年(1319年)、後醍醐天皇の即位によって後宇多上皇の院政が再開された時、有房は病の床にあった。だが、後宇多上皇の希望により、同年6月28日に突然、一条内経が内大臣を更迭されて既に危篤状態であった有房が後任とされた。3日後の7月1日には急遽、後宇多上皇が有房を見舞う。この日、有房は内大臣を辞任して出家、翌日に死去した。
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正応3年(1290年)には、東宮権大進として胤仁親王(後伏見天皇)に仕えていた。その後は後醍醐天皇の近臣となり、皇太子邦良親王の早期即位を画策する父・有忠と敵対した。学問よりも笠懸や犬追物など武芸を好み、淫蕩,博打にかまけていたため父から義絶されている。 元弘2年/正慶元年(1332年)の元弘の乱の後、天皇の隠岐島流罪に処されると、これに随従している。 翌年、天皇と共に隠岐を脱出して伯耆国の名和長年を頼り、船上山に挙兵した。頭中将に任じられ、山陰の軍勢を率いて足利高氏や赤松則村らと共に六波羅探題攻めに参戦している他、奥州白河の結城宗広,親朝親子を始め各地の豪族に綸旨を飛ばすなど、後醍醐天皇による倒幕運動に寄与した。 建武の新政では結城親光,楠木正成,名和長年らと共に「三木一草」と称され、権勢を振るった。従三位参議や雑訴決断所寄人となり、佐渡国など3ヶ国の国司職と北条氏の旧領10ヶ所を拝領したものの、万里小路宣房らと共に出家した。宣房はこのとき高齢であるが、佐藤進一の推測によれば、若年の忠顕の出家は新政への批判が集まる中で詰め腹を切らされる形となったものではないかという。 建武2年(1335年)11月、足利尊氏が新政から離反すると、建武3年(1336年)1月に新田義貞や北畠顕家らと共にこれを追い、足利勢を九州へ駆逐した。 同年6月7日、再び京都へ迫った尊氏の軍と対戦し、山城国愛宕郡西坂本の雲母坂(現在の京都府京都市左京区修学院音羽谷)で足利直義と戦って戦死した。 明治維新後、新田義貞,北畠顕家,楠木正成らが再評価されたことに伴い、大正8年(1919年)11月15日に忠顕は従二位を追贈された。
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正平一統時は少納言少将と丹波国司を兼任して同国に下っていたが、正平7年/観応3年(1352年)閏2月同国守護代・荻野朝忠を追い、500余騎の軍勢を率いて唐櫃越から入洛する。西七条に火を放ち、北畠顕能,楠木正儀らと共に幕府方の細川顕氏,頼春を破って、足利義詮を近江国へ敗走させた(七条大宮の戦い)。正平9年/文和3年(1354年)9月宗良親王の配下で新田義興,脇屋義治らと共に越後国宇加地城を攻撃した「千種相掌家」も顕経のことであろうと言われている。 その後は後村上天皇に伺候したらしく、口宣案・綸旨の奉者として名が見られ、具体的には正平13年/延文3年(1358年)から翌々年にかけて「蔵人頭左近衛権中将」、正平16年/康安元年(1361年)に左中将の自署を残している。 さらに歌人として、正平19年/貞治3年(1364年)1月の内裏歌会や翌正平20年/貞治4年(1365年)の内裏四季歌合に詠進したが、当時既に参議として公卿に列し、弾正大弼・左中将を兼任していたことになる。その後は累進して権大納言に至り、天授元年/永和元年(1375年)頃と推定される『住吉社三百六十番歌合』にも出詠したが、この間の官歴については史料を欠くために明らかにし難い。 『南朝公卿補任』によれば、天授3年9月4日(1377年10月6日)薨去。和歌は『新葉和歌集』に4首入集する。 忠顕の子顕経は、父の志を継いで南朝に仕え、正平7年(1352)北畠親房の指揮する南朝軍とともに、足利義詮と戦った。同24年(1369)足利義満は、土岐頼康に命じて北伊勢を攻めさせた。伊勢国司・北畠顕康は、三重郡に砦を築きこれに備えた。このとき、顕経は禅林寺城を築き、公家方諸将の総大将として三重郡を統轄したという。さらに、永徳元年(1381)に千種に移り山城を構えた。
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北伊勢の総大将として一千騎を従えていた。北伊勢には宇野部,後藤,赤堀,楠,茂福,木俣ら四十八家の諸武士がおり、千種氏に属していた。弘治元年(1555)3月、近江国の佐々木六角義賢が伊勢国に侵攻を企て、その家臣・小倉三河守に命じ三千余騎を率いさせ、まず千種城を攻めた。忠治はこれをよく防ぎ、勝敗はつかず結局和睦した。 忠治には男子がなく、佐々木氏の重臣・後藤但馬守の弟を養子とした。そして、千種三郎左衛門と称した。これによって、千種氏は佐々木氏に属するようになり、北伊勢の諸武士もこれにならった。その後、忠治に実子が生まれ、千種又三郎と名付けた。忠治は、親の情としても実子に家を継がせようと図った。これを感じた三郎左衛門は忠治父子が出かけた隙に城を閉じて父子を追放した。 忠治父子は、川北村に退き家来を集めて千種城を攻めたが、寡勢では城を落とすことはかなわず、近江国へ行き佐々木氏の食客となった。その後、織田信長の勢力が拡大し、信長の部将・滝川一益が長島城に居城した。北伊勢の諸武士の多くは滝川氏に属するようになり、千種又三郎も滝川氏に従った。しかし、一益は家臣・梅津某に命じて叉三郎を殺害させた。これは、近江の佐々木氏に同心しているとの理由であった。 父・忠治は卜斎を称して禅門に入り隠居していたことで、その難を逃れ、伊賀に移ってひそかに起居する身となった。その後、織田信雄が滝川一益を逐い長島へ入城したとき、卜斎は召されて千種城を与えられ、千種村を安堵された。そして、津城主・冨田信濃守の甥を養子にし顕理と名乗らせ、信雄に奉公させた。ところが、信雄が秀吉と戦って和睦し、のちに秀吉から追放処分となって流浪するにともない、豊臣秀吉に陪従して、音羽村で六百石を領地とした。元和元年(1615)5月6日、大阪夏の陣において顕理が戦死し、千種家嫡流は断絶した。
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