村上源氏

G823:六条通有  源 師房 ― 源 顕房 ― 源 雅実 ― 久我通光 ― 六条通有 ― 六条有純 G824:六条有純

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六条満子 戸田氏豊

 初めは伊勢慶光院の院主だったが、寛永16年(1639年)に徳川家光に謁見した時に見初められ、春日局によって大奥入りする。慶光院は格式の高い寺で、京都の上級公家の姫が剃髪して修行に入り、その後、住職になるという決まりがあった。還俗後は万と名を改め、家光の側室となる。このとき、髪が伸びるまで田安屋敷に留められたという。家光に深く寵愛されるが、子を儲けることはなかった。徳川将軍家では三代・家光以降に慣例となった五摂家または宮家出身の御台所(将軍正室)で次期将軍生母となった人物は存在せず、それ以外でも天皇家・公家を外戚に持つ将軍が誕生しないよう大奥が管理していたとされる。父・有純は朝廷の官職である参議であり、三条西家の同僚の和歌の家である六条家の娘であった万も決して例外ではなく、妊娠するたびに堕胎薬を盛られていた、あるいは不妊薬を飲まされていたという俗説もある。

 

 春日局の死後は家光より「春日同様」に奥向きを取り締まることを命じられ、春日局の後任として大奥の支配者となった。慶安4年4月20日(1651年6月8日)に家光が死去した後は、他の側室達とは違い落飾せず、「お梅の局」と名を変え、大上臈として再び大奥勤めを始めたといわれているが、実際の彼女のそれ以後の経歴はほとんど伝わっていない。お梅の局という人物も別人だとする説もある。しかし、明暦3年1月18日(1657年3月2日)に起きた振袖火事(明暦の大火)で江戸城の本丸が焼け落ちてしまい、家光の正室の中の丸(鷹司孝子)と共に小石川の無量院に避難したとされているので、少なくともこの頃までは大奥にいたと思われる。正徳元年10月11日(1711年11月20日)、88歳で死去。菩提寺は東京都文京区小石川の無量院。   

 公家出身の最初の高家。公家の六条家に生まれたが、母方の曽祖父が戸田一西であったことから、はじめは一族の美濃大垣藩主・戸田氏鉄のもとに身を寄せる。その後、姉のお万の方が将軍徳川家光の側室であったことから、江戸幕府の旗本に取り立てられた。
 慶安2年(1649年)10月1日、将軍徳川家光に御目見する。同年12月25日、武蔵国足立郡1000石を与えられる。慶安3年12月29日高家職に就任し、従四位下侍従・土佐守に叙任する。元禄7年(1694年)10月15日、高家職を辞職、寄合に所属する。元禄9年(1696年)12月11日に隠居し、長男・氏興に家督を譲る。元禄11年(1698年)8月29日死去。