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中院通方 | 中院通冬 |
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中院家の祖とされている。6歳で従五位下を授けられ、翌年には父の知行国であった因幡国が与えられる。建暦元年(1211年)に蔵人頭となって翌年に公卿に列した。以後、参議,検非違使別当,権中納言を歴任するが、承久の乱後、恐懼処分を受けて謹慎した。乱後は同母姉・承明門院とその孫・邦仁王(土御門天皇の子、後の後嵯峨天皇)を後見した。 |
正和5年(1316年)1月に2歳で叙爵。嘉暦4年(1329年)1月従三位に叙されて公卿に列した。元徳2年(1330年)2月参議、元弘元年(1331年)1月正三位に叙される。同年、光厳天皇が践祚すると、左衛門督・検非違使別当に補され、元弘2年/元徳4年(1332年)3月権中納言に昇ったが、元弘3年/正慶2年(1333年)5月後醍醐天皇の復辟に伴って参議に復し、左衛門督・使別当を停任。延元元年/建武3年(1336年)8月光明天皇の践祚によって参議を辞し、次いで延元3年/暦応元年(1338年)7月建武政権下で収公されていた上野国の知行権を回復し、9月権中納言へ還任した。延元4年/暦応2年(1339年)2月左衛門督を兼ね、12月淳和院別当となる。さらに興国元年/暦応3年(1340年)4月従二位に進み、7月奨学院別当を兼ねたので源氏長者宣下を蒙っている。同年12月春日神木の入洛によって朝儀が停滞したため、源氏の通冬は権大納言に任じられ、上卿として公事を主催するよう要請された。興国3年/康永元年(1342年)1月正二位に昇叙され、3月久我長通の辞職により、再び奨学院別当・源氏長者を兼務。興国6年/貞和元年(1345年)1月洞院公賢に申請して三度源氏長者宣下を蒙り、正平4年/貞和5年(1349年)9月大納言に転正した。 |
中院通守 | 中院通淳 |
応永6年(1399年)に参議兼右近衛中将に任ぜられる。応永9年(1402年)に従三位に叙される。応永11年(1404年)に権中納言に任ぜられる。応永17年(1410年)10月に権中納言を辞して同月中に還任する。 |
通淳の曾祖父中院通冬が一時的に南朝に仕えたことがきっかけとなり、持明院統北朝政権下で中院家は沈淪を余儀なくされた。通淳も辞任還任を繰り返す状態であったが、嘉吉の乱があり室町幕府6代将軍・足利義教が赤松満祐に暗殺されたことを境に淳和院別当に補され、従一位准大臣に至ったのである。息男の中院通秀と肖柏が共に歌人として名を成したこともあり、和歌を足がかりとして中院家は徐々に復権してゆくことになった。 |
中院通秀 | 肖柏 |
永享10年(1438年)叙爵。以後累進して宝徳2年(1450年)参議となり、左近中将を兼ねた。享徳2年(1453年)従三位に叙せられ、権中納言に任ぜられる。寛正3年(1462年)権大納言に昇進。文明13年(1481年)従一位に昇叙され、同17年(1485年)3月25日腫物を患い危急に及び、特に内大臣に叙任されて同月27日辞任した。その後回復したが、長享2年(1488年)6月2日出家し、法名を十輪院済川妙益とした。明応3年(1494年)6月22日、中風のため67歳で薨去した。彼は文芸に優れ、また洞院公賢の日記『園太暦』を洞院公数から購入して抄写した。日記『十輪院内府記』を残す。 |
宗祇から伝授された『古今和歌集』『源氏物語』の秘伝を、池田領主池田一門や晩年移住した堺の人たちに伝え、堺では古今伝授の一流派である堺伝授および奈良伝授の祖となった。早くに出家して正宗龍統に禅を学び、また和歌を飛鳥井宗雅、連歌を宗祇に学んだ。30歳頃から後土御門天皇の内裏歌合に参加している。 |
中院通為 | |
大永元年(1521年)9月に5歳で叙爵され、天文2年(1533年)11月左権中将を兼ねた際に通量から通為へ改名した。同3年(1534年)2月従四位上・参議に叙任されて公卿に列し、同4年(1535年)2月正四位下、同5年(1536年)4月従三位へと進む。同6年(1537年)3月幕府が加賀額田庄の代官を主張する国人・朝日氏の訴訟を退け、中院家による直務を命じたため、6月に同国へ下向。在国中の同9年(1540年)6月所労のため辞職したが、同10年(1541年)6月朝廷から在京継続の要請を受け、9月に上洛・参内し、12月参議に還任する。さらに同11年(1542年)閏3月正三位・権中納言に叙任され、同12年(1543年)3月侍従を兼ねた。同年11月年貢を未進した泉弥二郎なる者に対処すべく、再び加賀へ下向。通為は泉の田地を没収する強硬策に出るも報復されて横領の暴挙に遭い、同15年(1546年)5月幕府から額田庄の知行が安堵されている。その後の直務の動向は不明ながら、同24年(1555年)9月加賀より再び上洛し、弘治2年(1556年)1月正二位、9月権大納言に叙任される。永禄元年(1558年)9月近臣となったが、どのような事情があってか、翌2年(1559年)11月三度加賀へ下向。初め額田庄内の桑原に居住し、やがて越前国から一向衆が乱入した際、北上して能美郡山内へ逃れた。 |