村上源氏

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中院通方 中院通冬

 中院家の祖とされている。6歳で従五位下を授けられ、翌年には父の知行国であった因幡国が与えられる。建暦元年(1211年)に蔵人頭となって翌年に公卿に列した。以後、参議,検非違使別当,権中納言を歴任するが、承久の乱後、恐懼処分を受けて謹慎した。乱後は同母姉・承明門院とその孫・邦仁王(土御門天皇の子、後の後嵯峨天皇)を後見した。
 安貞元年(1227年)に中納言、2年後に権大納言となる。その間に宮廷行事における服装などの有職故実についてまとめた『飾抄』を著した。歌人としては『新勅撰和歌集』他に10首収められている。
 暦仁元年(1238年)、大納言に昇ったものの、間もなく病で倒れ、その年の暮れに薨去。享年50。

 正和5年(1316年)1月に2歳で叙爵。嘉暦4年(1329年)1月従三位に叙されて公卿に列した。元徳2年(1330年)2月参議、元弘元年(1331年)1月正三位に叙される。同年、光厳天皇が践祚すると、左衛門督・検非違使別当に補され、元弘2年/元徳4年(1332年)3月権中納言に昇ったが、元弘3年/正慶2年(1333年)5月後醍醐天皇の復辟に伴って参議に復し、左衛門督・使別当を停任。延元元年/建武3年(1336年)8月光明天皇の践祚によって参議を辞し、次いで延元3年/暦応元年(1338年)7月建武政権下で収公されていた上野国の知行権を回復し、9月権中納言へ還任した。延元4年/暦応2年(1339年)2月左衛門督を兼ね、12月淳和院別当となる。さらに興国元年/暦応3年(1340年)4月従二位に進み、7月奨学院別当を兼ねたので源氏長者宣下を蒙っている。同年12月春日神木の入洛によって朝儀が停滞したため、源氏の通冬は権大納言に任じられ、上卿として公事を主催するよう要請された。興国3年/康永元年(1342年)1月正二位に昇叙され、3月久我長通の辞職により、再び奨学院別当・源氏長者を兼務。興国6年/貞和元年(1345年)1月洞院公賢に申請して三度源氏長者宣下を蒙り、正平4年/貞和5年(1349年)9月大納言に転正した。
 しかし、正平6年(1351年)12月正平一統をきっかけに南朝の賀名生へ参候する。正平7年(1352年)1月南朝より従二位・権中納言に叙任され、2月崇光上皇の院別当に補された。北朝の要職にある通冬が南朝に移った事情はなお明らかでないが、南朝公卿として仕えた8年間で、正二位・大納言に至り、さらに右近衛大将を兼ねている。正平14年/延文4年(1359年)10月関東執事・畠山国清が南征のために東国軍を率いて上洛を始めると、これを聞いて狼狽したのか、再び京都に帰参して幕府より出仕免状を取得。ただし、本領安堵は儘ならず、辛うじて後光厳天皇から加賀国額田庄などの安堵を受けるに止まっている。正平16年/康安元年(1361年)3月本座を許されたが、翌年(1362年)秋より病がちとなり、正平18年/貞治2年(1363年)閏1月24日亥刻に千本の宿所で薨去した。享年49。晩年には任槐(大臣に任じられること)を所望していたにもかかわらず、南朝へ参候したという理由のみで勅許が得られないまま、失意のうちの他界となった。     
 日記『中院一品記』は、北朝初期の公家社会や寺社・武家の情勢を伝える好史料であり、東大史料編纂所と内閣文庫には自筆原本が所蔵される。原本には光厳天皇宸筆書状を始め、記事に関連する文書の原本が紙背文書として用いられており、そちらも貴重な史料である。

中院通守 中院通淳

 応永6年(1399年)に参議兼右近衛中将に任ぜられる。応永9年(1402年)に従三位に叙される。応永11年(1404年)に権中納言に任ぜられる。応永17年(1410年)10月に権中納言を辞して同月中に還任する。
 応永21年(1414年)3月に権中納言を辞するが、12月に権大納言に任じられる。応永22年(1415年)権大納言を辞任。応永23年(1416年)に正二位に叙される。応永24年(1417年)に権大納言に還任するが、翌応永25年(1418年)2月10日に自邸の持仏堂にて自らの首を小刀で掻き切って自殺した。 
 自殺は以下の事情があったという。後小松院は今年の春日祭の上卿に通守を任じた。だが、長年の戦乱や半済令などによる経済的困窮によって上卿として必要な準備を揃えられない通守は再三にわたって辞退を申し入れたが、院はこれを認めず準備を整えることを厳命した。通守は経済的困窮によって朝廷への奉仕を果たせないことに苦悩して自殺を口にするようになり、2月10日に自殺に至った。当時の公家社会において治天の君の勅勘や室町将軍の突鼻(譴責)を受けることは直ちに家の取り潰しにつながる可能性もあった。通守は後小松院の処罰によって中院家が潰されることを憂慮して自らの命を絶ったとみられている。

 通淳の曾祖父中院通冬が一時的に南朝に仕えたことがきっかけとなり、持明院統北朝政権下で中院家は沈淪を余儀なくされた。通淳も辞任還任を繰り返す状態であったが、嘉吉の乱があり室町幕府6代将軍・足利義教が赤松満祐に暗殺されたことを境に淳和院別当に補され、従一位准大臣に至ったのである。息男の中院通秀と肖柏が共に歌人として名を成したこともあり、和歌を足がかりとして中院家は徐々に復権してゆくことになった。
中院通秀 肖柏
 永享10年(1438年)叙爵。以後累進して宝徳2年(1450年)参議となり、左近中将を兼ねた。享徳2年(1453年)従三位に叙せられ、権中納言に任ぜられる。寛正3年(1462年)権大納言に昇進。文明13年(1481年)従一位に昇叙され、同17年(1485年)3月25日腫物を患い危急に及び、特に内大臣に叙任されて同月27日辞任した。その後回復したが、長享2年(1488年)6月2日出家し、法名を十輪院済川妙益とした。明応3年(1494年)6月22日、中風のため67歳で薨去した。彼は文芸に優れ、また洞院公賢の日記『園太暦』を洞院公数から購入して抄写した。日記『十輪院内府記』を残す。

 宗祇から伝授された『古今和歌集』『源氏物語』の秘伝を、池田領主池田一門や晩年移住した堺の人たちに伝え、堺では古今伝授の一流派である堺伝授および奈良伝授の祖となった。早くに出家して正宗龍統に禅を学び、また和歌を飛鳥井宗雅、連歌を宗祇に学んだ。30歳頃から後土御門天皇の内裏歌合に参加している。
 16世紀、永正の初期に摂津国池田を訪れ、大広寺後園の泉福院に来棲し、これを「夢庵」と称した。「夢庵」の肖柏は以後、自らを「弄花」と号し連歌を詠んだ。同地の国人領主池田充正の次代の正棟が肖柏を庇護し、これを通じて連歌に親しみ、池田一門の連歌流行をもたらしたため、「連歌の達人」と呼ばれた。こうして後世になって大広寺苑内には、肖柏の遺跡が残されることとなった。その後度々上洛したが、永正15年(1518年)和泉国堺に移り、その地の紅谷庵に住み没した。          
 孫に江戸時代前期の医師および狂歌師、俳人および歌人の半井卜養がいる。

中院通為

 大永元年(1521年)9月に5歳で叙爵され、天文2年(1533年)11月左権中将を兼ねた際に通量から通為へ改名した。同3年(1534年)2月従四位上・参議に叙任されて公卿に列し、同4年(1535年)2月正四位下、同5年(1536年)4月従三位へと進む。同6年(1537年)3月幕府が加賀額田庄の代官を主張する国人・朝日氏の訴訟を退け、中院家による直務を命じたため、6月に同国へ下向。在国中の同9年(1540年)6月所労のため辞職したが、同10年(1541年)6月朝廷から在京継続の要請を受け、9月に上洛・参内し、12月参議に還任する。さらに同11年(1542年)閏3月正三位・権中納言に叙任され、同12年(1543年)3月侍従を兼ねた。同年11月年貢を未進した泉弥二郎なる者に対処すべく、再び加賀へ下向。通為は泉の田地を没収する強硬策に出るも報復されて横領の暴挙に遭い、同15年(1546年)5月幕府から額田庄の知行が安堵されている。その後の直務の動向は不明ながら、同24年(1555年)9月加賀より再び上洛し、弘治2年(1556年)1月正二位、9月権大納言に叙任される。永禄元年(1558年)9月近臣となったが、どのような事情があってか、翌2年(1559年)11月三度加賀へ下向。初め額田庄内の桑原に居住し、やがて越前国から一向衆が乱入した際、北上して能美郡山内へ逃れた。
 永禄7年(1564年)12月、在国のまま師秀親王の勅別当となる。翌8年(1565年)8月万里小路惟房へ書状を送り、所労危急のため任槐(大臣に任じられること)を嘆願して勅許を得たが、これには条件が付され、もし本復すれば召し返すこと、逝去すればその日を以て任日とすべしとのことであった。しかして、通為は9月3日に癰腫(腫れ物)のため山内で薨去したので、後日、朝廷では同日付を以て任内大臣の宣下が行われたという。ただし、同時代の広橋兼秀の自筆と推定される『異本公卿補任』(広橋家本)にはこの注記が一切なく、通為は腫物所労で起居していた折、越前より乱入した一向衆に放火されて焼死し、永禄10年(1567年)9月内大臣を追贈されたとの異説が見える。何れにしても、祖父・通世と父・通胤の官が権中納言に留まった通為にとって、大臣昇任が悲願であったことは疑いない。