村上源氏

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源 信雅 源 成雅

 馬権頭の任にあった寛治7年(1093年)に昇殿。永長元年(1096年)の大田楽においては、源重資らと共に小鼓を打つ。承徳2年(1098年)正月に右少将。長治元年(1104年)に従四位下。散位を経て長治2年(1105年)3月以前に加賀介に任ぜられ、同職を長く務めた後に大治3年(1128年)に陸奥守。その後重任し、在職のまま保延元年(1135年)に卒去。
 藤原忠実の家司を務め、その衆道の相手でもあったとされる。『富家語』には、忠実が信雅とその子・成雅の容貌を比較して批評した話が収録されている。

 姉妹が妻となっていた藤原頼長に近侍し、保元元年(1156年)における保元の乱の際には、頼長とともに崇徳上皇方に参加する。上皇方が後白河天皇方に敗れると、出家(法名は蓮浄)し恭順の意を示すが、赦されず越後国に配流となった。
 数年を経て応保年間には帰洛が許され、その後かつての敵である後白河院の近習となっていたことが『梁塵秘抄』に見える。僧形となっていたことから、世上、近江中将入道と呼ばれたという。
 安元3年(1177年)には、鹿ケ谷の陰謀に加担した廉で捕らえられ、再度佐渡国に配流となっている。