<藤原氏>北家 御堂流

F701:藤原道長  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原道長 ― 藤原家政 F732:藤原家政


リンク
藤原家政 藤原雅教

 寛治2年(1088年)に従五位下に叙位。同8年(1094年)侍従となり、同年昇殿。承徳2年(1098年)左中将、康和4年(1102年)参議、従三位と進み、永久元年(1113年)に正三位に至るが、2年後の同3年(1115年)に36歳で早世した。
 父が早く他界した後は、祖父の師実に養われていたという。『富家語』第138条には、師実が外出から戻った際にその足を洗う役目を少年期の家政が務めていたことが語られている。また、粗暴で作法に疎かったとされ、『中右記』には、勅使から酒を賜った際の作法の誤りの酷さに非難を受けたことが記されている。
 その子孫は室町家(法性寺家)を称したが、室町時代に断絶している。

 永久6年(1118年)に従五位下に叙爵、以後各国の受領や民部少輔/権大輔等を歴任する。また、鳥羽法皇のもとで院庁別当を務めた。この功績により、仁平3年(1153年)に従四位下・刑部卿に叙任され、久寿元年(1154年)には右中弁、久寿3年(1156年)には左中弁に蔵人頭を兼ねた。
 保元元年(1156年)7月に発生した保元の乱においては、乱の勃発に先立ち、後白河天皇からの命令を受け、藤原忠実・頼長父子が全国の荘園から武士を動員することを禁ずる綸旨を、奏者として全国の国司に発給する役目を果たした。乱の後の論功によって、同年9月に参議兼左大弁に任じられ公卿に列した。
 その後も、保元2年(1157年)従三位、保元3年(1158年)正三位・権中納言、永暦元年(1160年)中納言と急速に昇進するが、長寛元年(1163年)中納言を致仕し、永万元年(1165年)8月14日に出家した。

藤原雅長

 久安4年(1148年)に従五位下に叙される。保元2年(1157年)従五位上・民部権大輔に任ぜられる。保元4年(1158年)に正五位下に進み、平治元年(1159年)に駿河守に任ぜられるが、永暦元年(1160年)に藤原隆信とともに院昇殿停止・解官の処分を受けた。
 応保3年(1163年)に左近衛少将に任ぜられ、嘉応3年(1171年)に左近衛中将になる。この間に正四位下に進む。安元2年(1176年)に雅長が有力視されていた蔵人頭の後任に院近臣の藤原定能・光能が雅長を飛び越えて任命されたことが話題となり、九条兼実は雅長に同情している。治承3年1月19日(1179年)に従三位に叙されて左近衛中将を辞任、文治元年(1185年)に参議に任ぜられ、4年後に従二位に昇る。参議在任のまま死去した。