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藤原忠実 | 藤原泰子 |
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康和元年(1099年)に父・師通が急死した際、22歳の権大納言・忠実は、まだ大臣に任官されていなかったことにより、関白には任じられず内覧にとどまった。ただ、内覧であっても過去には藤原時平や道長のように摂関同様の実権を振るった例もあり、忠実にも挽回の可能性が残されていたが、政治的未熟さが露見され、摂関家は完全に院政の風下に立ち、忠実は摂関家の栄華を再び取り戻すという夢を生涯かけて追求することになる。 |
天仁元年(1108年)頃、8歳年下の幼帝・鳥羽天皇に入内するよう時の治天の君・白河院に命ぜられたが、父・忠実はこれを固辞。永久元年(1113年)にも入内の話が具体化するが、同時期に嫡男・忠通と白河院の愛妾・祇園女御の養女・藤原璋子(のちの待賢門院)との縁談が進むなか、忠実は白河院と璋子の間に不義の関係があるという噂を耳にしたため、このいずれもを断り白河院の勘気を蒙った。保安元年(1120年)、白河院が熊野御幸に出ている間に、忠実は鳥羽天皇に対して直接勲子の入内を打診したことが白河院に漏れたことで忠実は関白と兼職の内覧を罷免され、宇治隠居を余儀なくされた。この間にも忠実は愛娘の身の振り方に心を悩まし、勲子のために元永元年8月(1118年)に使いを伊勢の大神宮に遣わして祈祷させたことが記録に見える。 |
藤原忠通 | 藤原頼長 |
康和5年(1103年)、大江匡房の名付により「忠通」と称する。嘉承2年(1107年)、元服し白河法皇の猶子となる。永久2年(1114年)、白河法皇の意向により法皇の養女の藤原璋子(藤原公実の娘)との縁談が持ち上がるが、璋子の素行に噂があったこともあり、父・忠実はこの縁談を固辞し破談となる。保安2年(1121年)、法皇の勅勘をこうむり関白を辞任した忠実に代わって藤原氏長者となり、25歳にして鳥羽天皇の関白に就任。その後も崇徳,近衛,後白河の3代にわたって摂政・関白を務めることとなった。
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大治5年(1130年)、藤原敦光が持参した複数の名字の中から中御門宗忠が「御堂(道長)宇治殿(頼通)御名字なり」という理由で選び、「頼長」と命名された。元服して正五位下に叙せられて以降、天承2年(1132年)に参議を経ずに権中納言に昇進。長承2年(1133年)には8歳年上の徳大寺実能の娘・幸子を娶った。長承3年(1134年)、権大納言となる。久安5年(1149年)、左大臣に進む。 |
藤原兼長 | 藤原師長 |
幼名を父・頼長と同じく菖蒲若と称す。久安元年(1145年)、父・頼長より「忠経」の名を与えられるが、祖父・忠実の強硬な反対により翌日に兼長と改められた。この理由として忠実は、朝敵として討滅された平忠常と同訓であることの不吉を説いている。
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当時の執政である左大臣・頼長の息子であったことに加えて、祖父・忠実の猶子となったことで、早くから伊予権守,右近衛中将などを歴任する。師長の生母と異母弟である兼長・隆長の生母は同じ源師房の曾孫であるが、受領(源信雅)の娘の所生である師長と権中納言(源師俊)の娘の所生である兼長・隆長とは立場的に格差があった。だが、頼長は師長を「大殿」忠実の猶子にして、その後ろ盾によって摂関家の嫡子に相応しい身分を保証した上で、3人の息子を競わせて後継者を選択しようとした。 |
藤原隆長 | 藤原範長 |
久安5年(1149年)に右兵衛佐、仁平元年(1151年)に侍従、同2年(1152年)に左近衛権中将、同3年(1153年)に正四位下となる。仁平2年、鳥羽法皇の五十歳の御賀に当たり、藤原実定とともに青海波を舞ったが、その様子を見物した祖父の忠実から舞の未熟さを見咎められ、師匠である狛光行と交替させられた逸話が『古事談』に見える(隆長に代わった光行の舞も隆長のそれと大差なく、舞の正しい伝承が行われていないことを知った忠実が、自ら光行に指導したとある)。 |
幼少期は祖父の忠実の愛妾・播磨の養子であったとされる。仁平3年(1153年)に興福寺大乗院3世・尋範 (範長には叔曽祖父に当たる)の弟子となり、その一字を取って法諱を範長と名乗る。 |
藤原多子 | 藤原兼房 |
藤原頼長は徳大寺実能の長女・幸子(多子の伯母)と結婚して、徳大寺家の人々と大炊御門高倉邸に住んでいたことから、義弟・公能の娘を幼い頃から養女としていた。久安4年(1148年)6月、頼長は近衛天皇への養女の入内を鳥羽法皇に奏請して承諾を得た。 |
仁平3年(1153年)、関白・藤原忠通の10男として誕生。応保2年(1162年)に10歳で元服し、従五位上、次いで正五位下に叙され、さらに禁色を許され侍従となった。長寛元年(1163年)に左少将、長寛2年(1164年)には左中将となり、仁安元年(1166年)に14歳で従三位に叙され公卿に列した。しかし同母兄・九条兼実が「才漢なし、労積なし」と語るように才覚や見識には乏しく、永らく議政官になれず非参議左中将に留まった。寿永2年(1183年)4月には、位階も年齢も下だった藤原頼実が権中納言に任じられることになり、兼実を落胆させている。同年8月に兼房も権中納言に昇進するが、11月の法住寺合戦では院御所に参入していたため戦闘に巻き込まれ、一時は消息不明となった。 |
九条兼良 | 慈円 |
九条兼実の弟系である兼房流九条家の祖。 |
天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚、通称に吉水僧正、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円と紹介されている。 |