<藤原氏>北家 為光流

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藤原為光 藤原誠信

 村上朝の天暦11年(957年)従五位下に叙爵以降、武官を務めながら昇進し、この間に五位蔵人も務めている。
 康保4年(967年)6月の冷泉天皇即位後も引き続き蔵人を務めるが、同年10月に従四位下に叙せられて蔵人を去る。康保5年(968年)従四位上・権左中弁に叙任され弁官に遷る。安和2年(969年)3月に叔父であり義兄弟でもあった左大臣・源高明が失脚する安和の変が発生し、高明の女婿・為平親王の家司を務めていた為光は連座して昇殿を止められる。しかし、まもなく許されたらしく、4月に左中弁に昇格し、8月の円融天皇即位を経て10月には蔵人頭(頭弁)に任ぜられ、天禄元年(970年)には参議兼左近衛中将として公卿に列した。
 異母兄の伊尹,兼通から可愛がられており、天延元年(973年)に先任参議6名を飛び越して権中納言に抜擢され、従三位に叙せられると、天延3年(975年)中納言、天延4年(976年)正三位に叙任されるなど、公卿となった後も順調に昇進していく。貞元2年(977年)には従二位・大納言に叙任され、兼通から疎んじられていた異母兄の兼家を超え、筆頭大納言となる。しかし、同年11月に兼通が没すると、翌天元元年(978年)に兼家が右大臣に就任して再び為光を超え、兼家と将来の摂関の地位を争う。
 永観2年(984年)春宮大夫として仕えてきた師貞親王が即位(花山天皇)し、天皇の要望を受けて為光は娘の藤原忯子を入内させる。忯子は天皇の寵愛を受け、為光自身も内給所を任されるなど、天皇の外戚で為光の義弟・婿でもある権中納言・藤原義懐と並んで重きをなした。だが、寛和元年(985年)7月に忯子が急死すると、翌寛和2年(986年)6月に傷心の花山天皇は出家してしまい(寛和の変)、続く一条天皇の即位とその外祖父・兼家の摂政就任によって為光の野心は挫折した。
 しかし、兼家は左大臣・源雅信に対抗するために為光との連携を図ったため、同年7月に為光は右大臣に任ぜられ、寛和3年(987年)には従一位に叙せられた。その一方で、これによって為光は兼家・道隆親子の風下に立つことになってしまった。永延2年(988年)には妻と忯子の菩提を弔うために法住寺を建立している。
 正暦2年(991年)に道隆の推挙で太政大臣に任じられるが、翌正暦3年(992年)6月16日薨御。享年51。正一位が贈られ、相模国を封じられた。諡は恒徳公。邸宅の一条院は姪・詮子に相続された。日記に『法住寺相国記』がある。

 7歳で詩集『李嶠百二十詠』を暗誦する等の物覚えの良さを見せ、父の為光も誠信のために、当時の有名な文人・源為憲に貴族の幼童用の教科書『口遊』の編纂を依頼したり、あるいは永延2年(988年)に異母兄の摂政・兼家に懇願を重ねて参議に就任させたりと、大いに将来を期待していた。なおこの際に為光が、誠信の競争相手であった小野宮流の藤原実資の悪口を兼家に吹聴していたとされる。
 しかし長ずるにつれ、政治能力に欠けていることが明らかになり、その上酒好きで酒席での失態も多かった。藤原頼通邸で正月の臨時客の宴会が開催された際、誠信は酔いつぶれて座ったまま嘔吐してしまい、巨勢広高が描いた楽府の屏風を汚物で汚したことがあったという。切れ者であった同母弟の斉信に比して人望を失っていった。
 長保3年(1001年)に欠員ができた中納言への昇格を望み、あらかじめ斉信に対し自分を出し抜いて昇任申請をしないよう言い含めるが、誠信の能力に疑問を抱く藤原道長の後押しを受けた斉信が中納言に任ぜられた。このことにより誠信は、道長と斉信を深く恨み、憤激・絶食の末に病を得て没した。 長保3年(1001年)9月3日薨去。享年38。『大鏡』の描写によれば、その有様は握り締めた手の指が手の甲を突き破るほど凄まじいものであったという。

藤原斉信 藤原公信

 寛弘の四納言の一人(ほかに源俊賢,藤原公任,藤原行成)。
 円融朝の天元4年(981年)従五位下に叙爵し、花山朝から一条朝前期にかけて武官を務めながら順調に昇進した。しかし、正暦3年(992年)、頭中将・藤原公任が参議に昇進したことから、後任の蔵人頭の選定が行われる。通常ならば従四位上・左近衛中将であった斉信が適任であったところ、正五位下・右中弁の源俊賢が任じられた。
 正暦5年(994年)、斉信は蔵人頭(頭中将)となるが、振る舞いが非常に高貴で、随身を召して使う様子はまるで近衛大将のようであったとされる。斉信は蔵人頭としての職掌もあって中関白家出身の中宮・藤原定子のサロンに近しく出入りしていた様子がうかがえる。しかし、長徳元年(995年)4月の関白・藤原道隆の薨去を通じて、中関白家から距離を置いて藤原道長に接近したらしく、長徳2年(996年)に発生した長徳の変により、中関白家の藤原伊周・隆家兄弟が左遷された当日に、斉信は参議に任ぜられ公卿に列している。なお、左近衛中将を引き続き兼帯した。なお、長徳の変のきっかけとなった伊周兄弟の花山法皇襲撃を道長に密告したのは斉信ではないかとする説もある。
 参議任官時の年齢は30歳と、兄・誠信の25歳に比べてここまでの昇進は遅れたが、その後は急速に昇進し、参議任官後4年余りで官位面で誠信に肩を並べる。長保3年(1001年)には藤原懐平,菅原輔正,藤原誠信の上位者3名を越えて権中納言に任ぜられた。この昇進に関して、誠信は自分が権中納言への昇任申請をするので、斉信に対して今回は辞退するように念押ししていたが、左大臣・藤原道長から誠信は昇任できそうもないため昇任申請をするように勧められた斉信が結局申請して権中納言に任ぜられ、この経緯を知った誠信が怒りのあまり憤死したとの逸話がある。また、斉信の能力が優れていたために、誠信を越えて昇進したともされる。誠信は藤原伊周に近かったために長徳の変後に道長から疎んじられていたとする推測もある。なお、斉信の権中納言昇進から7日後に誠信が死去しているため、自然死ではないと噂されていたのは事実と見られる。
 斉信は藤原道長の腹心の一人として一条天皇の治世を支え、一条朝の四納言と称されたが、中でも斉信はいわゆる属文の卿相として、藤原行成と共に公私に亘る詩会に熱心に参加した。
 権中納言昇進後も、中宮(権)大夫として道長の長女の中宮・藤原彰子に仕える一方で順調に昇進し、寛弘6年(1009年)には権大納言に昇進。藤原公任を越えて、四納言の筆頭格となった。斉信は議政官になってからも道長の外戚の地位確立に大きく貢献したことも評価されたと考えられている。
 長和2年(1013年)、道長の娘で三条天皇の中宮であった藤原妍子の御所として使用されていた東三条殿が焼亡したが、斉信は直ちに郁芳門殿を空けて、妍子の滞在場所とするために提供。道長はこれに非常に感動したことを日記に書きとどめている。
 寛仁元年(1017年)、道長が左大臣から太政大臣に昇進し、順送り人事で内大臣職が空席となるが、6名の権大納言の内でいちばん若い道長嫡子の頼通が内大臣に昇進。斉信はここで公卿昇進後初めて他者に官位を超えられる。その後の人事異動でも大臣に昇ることはなかった。
 万寿元年(1024年)、道長は病気療養のために斉信を誘って有馬温泉に旅行しているが、道長が晩年まで斉信を信頼していた表れとも言える。長元8年(1035年)3月23日薨去。享年69。病に苦しむことなく没したという。
 和歌や漢詩を始め、朗詠や管絃にも通じ、当代随一の文化人としての名声も高かった。清少納言との交流でも知られ、『枕草子』の中にもたびたび登場し、その艶やかな振る舞いを描写されている。

 兄で大納言・藤原斉信の養子となる。一条朝の正暦6年(995年)従五位下に叙爵し、翌長徳2年(996年)侍従に任ぜられる。長徳4年(998年)右兵衛佐を経て、長徳5年(999年)従五位上・右近衛少将に叙任される。その後も順調に昇進を続ける。同年6月に一条天皇が崩御して蔵人頭を止められるが、同年12月に今度は新帝・三条天皇の蔵人頭となり、長和2年(1013年)参議に任ぜられ公卿に列した。
 議政官の傍らで、春宮・敦良親王の春宮権大夫や兵衛督を兼帯し、この間にも従二位と昇進している。治安3年(1023年)権中納言に至る。
 万寿3年(1026年)正月に室の藤原光子が没すると、公信も5月8日頃より流行の病に罹り、15日に薨去。享年50。養父・藤原斉信は「この君にさへ後れぬること」と嘆いて、泣きながら葬送の準備を指示したという。

藤原親通 藤原親盛
 源頼朝に敗れた親政は孫、平資盛は曾孫にあたる。山城守を経て、大治2年(1127年)に下野守、その後下総守に任ぜられる。下総守在任中の保延2年(1136年)には在地領主・千葉常重から相馬御厨や立花荘を召し上げたという。  父の親通が千葉常重から奪取した相馬御厨や立花荘を継承し、下総国に一族の勢力を保つ。長男の親政の室に平忠盛の娘を迎える一方、娘を忠盛の孫・重盛の室とするなど、平家一門との関係を深めた。こうした関係を通じて一族は下総における親平家勢力の代表的存在となり、治承年間、親政の代に源頼朝麾下となった千葉氏の攻撃を受け滅ぼされている。
藤原親政

 皇嘉門院判官代として中央に出仕し皇嘉門院別当を補佐する一方、祖父の親通,伯父の親方が下総守に在任中に獲得した所領を父・親盛から継承、千田荘の領家として下総匝瑳郡に在って坂東平氏や佐竹氏等坂東の武士団を率いた。居館は匝瑳北条荘の内山館と千田荘の次浦館の2ヶ所が知られる。なお、保元の乱,平治の乱を制し栄華を誇った伊勢平氏とは、忠盛の婿であり、かつ資盛の伯父という二重の姻戚関係にあった。
 治承4年(1180年)、石橋山の戦いに敗れた源頼朝が房総に逃れ、頼朝に呼応した千葉氏により下総目代が討たれた。このため、親政は千余騎を率いて千葉荘を攻めるが、9月14日(10月4日)千葉常胤の孫・成胤に生虜にされたという。9月17日(10月7日)下総国府に入った頼朝の前に引き出されるが、その後の動静は不明。