F521:藤原師輔 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師輔 ― 藤原道隆 | F601:藤原道隆 |
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藤原道隆 | 藤原伊周 |
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永観2年(984年)8月、円融天皇が花山天皇に譲位すると、道隆は従三位に叙せられ、東宮となった懐仁親王の春宮権大夫に任じられる。花山天皇の外祖父は兼家の亡兄の伊尹で、伊尹の子の権中納言義懐が外叔父となり天皇を補佐していた。花山天皇と外戚関係を持つ義懐は脅威であり、そのため、兼家は孫の懐仁親王の早期の即位を強く望んだ。 |
寛和2年(986年)7月22日、一条天皇の即位式の日に昇殿。正暦元年(990年)5月8日、祖父・兼家の後をついで父・道隆が摂政に就任し、さらに同年10月中宮に同母妹・定子が立つと、摂関家の嫡男としてその地位は飛躍的に上昇した。正暦2年(991年)正月26日、参議となって公卿に列し、同9月7日には権中納言に昇叙、更に翌3年8月28日、正三位権大納言に進んだ。その翌年の正暦5年(994年)8月28日、21歳の伊周は8歳年上の叔父・道長ら3人の先任者を飛び越えて内大臣に昇進、伊周の後任の権大納言は3歳上の異母兄・道頼に譲るという強引な伊周への官位引き上げは、一条天皇の生母・東三条院詮子(道隆の妹)をはじめとして朝野上下の不満を募らせた。それは、やがて道隆薨去後、道長の政権奪取に絶好の素地を提供することになる。 |
藤原道雅 | 藤原遠峰 |
祖父の中関白道隆に溺愛されて育つが、長徳元年(995年)に道隆は死去、さらに、翌年内大臣という高位にあった父・伊周が花山法皇に対し弓を射掛ける不敬事件を起こし大宰権帥に左遷され(長徳の変)、実家の中関白家が没落する中で成長する。 |
『鎌倉武鑑』の伝えによれば、児玉氏は中関白道隆公の後葉とされる。ただ、これは後世になって後付けされた系譜であると考えられる。鎌倉期まで児玉党の初姓は有道であった。しかし、庄左衛門尉長家が建武の新政の際に、初姓が藤原であったと奏請し、武者所祗候の時には「藤原長家」と称する事を許されたと『武蔵七党系図』には記されている。雑訴決断所結番交名にも「庄左衛門尉藤原長家」とある。『武蔵七党系図』で、児玉党の祖を内大臣・藤原伊周の子・藤原伊行としたのは、庄長家が上洛し藤原姓を称した方が社会的に有利であると考えたためと見られ、鎌倉期以後(14世紀中頃)に初姓を改めて地位を向上させようとしたものと考えられる。 |
藤原定子 | 藤原隆家 |
永祚元年(989年)父方の祖父である摂政・兼家の腰結いで着裳、その時はじめて歴史の表舞台に登場する。正暦元年(990年)1月25日、数え14歳の春に、3歳年下の一条天皇に入内。同年10月5日、皇后に冊立され「中宮」を号した。なお、道隆は定子を立后させるために、本来皇后の別名である「中宮」の称号を皇后から分離させて定子に与えた。同じ年の5月には、父・道隆が祖父兼家の亡き後を継いで摂政・氏長者に就任しており、道隆一族は輝かしい栄華を謳歌した。 |
永祚元年(989年)正月29日、11歳で元服し従五位下侍従、正暦4年(993年)3月10日右近衛中将、翌5年8月28日、非参議・従三位に叙され公卿に列す。父・道隆の死に先立ち、長徳元年(995年)4月6日に権中納言に至る。翌2年4月24日、花山法皇奉射,東三条院呪詛,大元帥法を行った罪状三ヶ条を以って出雲権守に左遷された(長徳の変)。 |
藤原政則 | 藤原原子 |
別名は蔵規とも記述される。寛仁3年( 1019年)の刀伊の入寇で戦功のあった大宰権帥藤原隆家の下で大宰少弐であり、一説にはこの隆家が但馬国に流された時の子息ともしている。 |
正暦4年(993年)2月着裳。同6年(995年)1月、東宮居貞親王(のちの三条天皇)に入侍。淑景舎を局とし、淑景舎女御,内御匣殿などと称されて東宮の寵愛を受けた。当世風の華やかな人柄であったといい、姉・定子を訪れた時の様子が『枕草子』に登場している。 |