<藤原氏>北家 道隆流

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大森親家 大森頼春

 大森氏は、駿河国駿河郡大森より起こったという。系図によれば、内大臣・藤原伊周の子孫と伝え、親家の代に駿河大森に住んで大森氏を称したのが始まりとある。しかし、実際のところは駿河郡の古い土豪であり、勢力を得るとともに藤原氏の子孫を称したものであろう。大森氏の庶流として、大沼,河合,菅沼,神山,沓間などが知られ、また、室町時代になると箱根別当職も一族のものがつとめた。

 

 駿河国駿東郡の領主であったが、後に相模国足柄下郡に所領を与えられて小田原城を築城した。
 応永13年(1406年)、鎌倉公方足利満兼による円覚寺修繕のために伊豆国三島に関所を設置して関銭を徴収した記録がある。上杉禅秀の乱鎮圧の功により、古河公方足利持氏より箱根山一帯の支配権を与えられた。
 応永24年(1417年)頃、前領主・土肥氏の拠点があった小田原に小田原城を築いた。応永29年(1422年)に出家して、家督を氏頼に譲った。

大森憲頼 大森氏頼
 父・頼春に従い、鎌倉公方方の有力国人として活躍。永享の乱では鎌倉公方・足利持氏に付き、弟の箱根権現別当・実雄らと共に箱根山での戦いで活躍した。持氏が敗死した後も没落することなく勢力を維持し、結城合戦が起きると下総結城城まで出兵しようとして、鎌倉に駐留していた駿河今川氏や蒲原氏らに警戒されている。小田原城を整備し、近隣を横領したが、鎌倉公方足利成氏が古河へ逃亡し、相模国は扇谷上杉家の勢力が有力になると、扇谷上杉家を支持する弟・氏頼らと対立。長尾景春の乱では景春方について相模国平塚城に籠ったが、太田道灌に攻略され、子の成頼と共に箱根山中に逃亡し没落したとされる。

 扇谷上杉家の家臣。相模国小田原城城主、後に岩原城城主。生年は不明であるが、父・頼春が応永29年(1422年)に出家したとされているため、それ以前の誕生であると考えられる。初め鎌倉公方・足利持氏に仕えていたが、永享の乱の際に室町幕府方に付いて上杉氏の指揮下に入る。だが、これに兄の憲頼が不満を抱き激しく対立した。更に京都から派遣されてきた堀越公方・足利政知と執事の渋川義鏡も氏頼を疎んじて異母弟の8代将軍・足利義政に讒言した。義兄弟の時高と千葉実胤、嫡男の実頼もこの騒動に巻き込まれている。
 これを憂慮した太田道灌の助力により、寛正5年(1464年)に道灌に従って上洛して義政の赦免を受け、文明10年(1478年)には大森氏の内訌を収めた。上杉定正に仕えてその兄である三浦高救に娘を嫁がせて相模三浦氏相続を支援した。
 太田道灌が暗殺された後に氏頼は第一の重臣として家中において重きをなしたが、古河公方・足利成氏と和議を結びながらすぐにこれを破棄するなど定正の政治手法は家臣の離反を招くようになる。氏頼は扇谷上杉家の今後に不安を抱き、「大森教訓状」と呼ばれる諫言状を定正に送った。小田原に城下町を整備して相模西部の支配を確立し、曹洞宗を手厚く保護した。後に嫡男の実頼に小田原城を譲って自身は岩原城を守った。明応3年(1494年)死去。実頼には先立たれていたので家督は次男の藤頼が継いだ。

大森藤頼 大森実頼

 扇谷上杉家家臣。相模国小田原城城主。兄の実頼が早世したため、父の氏頼が没した明応3年(1494年)前後に家督を継いだといわれる。氏頼没後の大森氏については不明確な点が多いため、藤頼の経歴も不明な点が多く、氏頼とかつて家督を争った大森憲頼の一派と内紛状態にあったともいわれる。
 軍記物を通じて広く知られた逸話によると、氏頼の没後に伊勢盛時(北条早雲)が進物を贈るようになり、友好関係を装い藤頼に接近し、油断した藤頼が盛時の箱根山中鹿狩を許してしまったため、勢子に擬装した兵の奇襲を受け、小田原城を略取され追放されたといわれる。この事件が起きた年代については通説では、明応4年(1495年)とされているが、その翌年に書かれたとされる山内上杉家の上杉顕定の手紙には大森氏(藤頼か?)を小田原城に攻めたが、早雲と三浦義同(道寸)の援軍に敗れたとあり、早雲が小田原城を奪ったのはそれ以後、文亀元年(1501年)までには奪取されたと考えられている。また、城の奪取に際し、藤頼と早雲にこのようなやり取りがあったかは不明である。
 その後、藤頼は縁戚の三浦義同の支援を受けて大住郡実田城(真田城;現在の神奈川県平塚市)に逃れて戦ったが、明応7年(1498年)に敗れて自殺したといわれている。だが、その後も藤頼が生きていた(または真田城で自殺した大森某は藤頼とは別人)という説があり、大森氏の菩提寺であった静岡県小山町の乗光寺の記録では文亀3年(1503年)没とあり、こちらもはっきりとは分かっていない。

 相模小田原城城主。官位は信濃権守。堀越公方・足利政知と渋川義鏡の讒言によって室町幕府8代将軍・足利義政から父や三浦時高,千葉実胤と共に謀叛の疑いを受ける。これに憤って寛正5年(1464年)5月に隠退してしまうが、太田道灌の奔走と義政の慰留で復帰した。以後、道灌に従って長尾景春,豊島泰経,千葉孝胤らと戦うが、若くして没した。
 没日については、文明15年(1483年)7月16日説(『乗光寺過去帳』)と文明18年(1486年)10月19日説(『新編相模国風土記稿』)とがある。