<藤原氏>北家 小野宮流

F501:藤原忠平  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原実頼 F502:藤原実頼

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藤原実頼 藤原頼忠

 摂政関白太政大臣を歴任した藤原忠平の長男として順調に栄達し、村上天皇のときに左大臣として右大臣の弟・師輔とともに朝政を指導して天暦の治を支えた。しかし、後宮の争いでは師輔に遅れをとり、外戚たることができなかった。冷泉天皇が即位すると、その狂気のために関白職が復活し実頼が任じられた。次いで円融天皇が即位すると摂政に任じられている。また、有職故実に通じ、小野宮流を創始した。
 延喜15年(915年)正月20日、16歳のときに元服、延長9年(931年)に参議、天慶2年(939年)に大納言に任じられ、天慶7年(944年)に右大臣を拝する。村上天皇が即位した天暦元年(947年)に左大臣を拝し、同時に弟の師輔は右大臣に任ぜられた。天暦3年(949年)、忠平薨去のあとをうけて藤氏長者となる。実頼と師輔は左右大臣としてともに村上天皇を輔佐し、天暦の治と評された。実頼は述子を、師輔は安子を村上天皇の女御として入内させ寵を競ったが、述子は皇子を生むことなく死去し、一方、安子は東宮憲平親王をはじめ、為平親王,守平親王を生み、後にこれが双方の家の栄達に決定的な差を生じさせる。天暦4年(950年)の憲平親王立太子は村上天皇,穏子,朱雀法皇,師輔の密談によって決定され、実頼の知らないうちに決定されていたという。
 康保4年(967年)、村上天皇が崩御して憲平親王が即位(冷泉天皇)したが、冷泉天皇には狂気の病があり、天皇を輔弼する者が必要で、村上天皇時代には長く置かれなかった関白が復活し、藤原氏嫡流で長老の実頼が任じられ、同時に太政大臣に補任された。しかし、実頼は関白ながら外戚ではなかったことで何かと軽んじられ、外戚伯父にあたる師輔の子たちが跳梁していることを嘆き「揚名関白(名ばかりの関白)」と称している。
 東宮については守平親王と決した。これは為平親王の妃が左大臣・源高明の娘であり、実頼と師尹が源氏の高明が将来外戚となることを恐れたためであった。安和2年(969年)失意の高明に突如謀反の嫌疑がかけられ失脚し、大宰府へ流される事件(安和の変)が起き、この陰謀の首謀者は実頼とされているが、弟の師尹または師輔の子の伊尹,兼家を擬定する説もある。
 同年、冷泉天皇は譲位し、守平親王が即位した(円融天皇)。新帝が未だ幼年であったため実頼は摂政に任じられた。だが、翌天禄元年(970年)に病に倒れ、5月薨去。享年71。正一位が追贈され、尾張国に封じ、清慎公と諡号された。
 有職故実に詳しく、父忠平の教命を受け、朝廷儀礼のひとつである小野宮流を形成した。なお、実頼の流派が小野宮流と呼ばれる所以は彼の邸宅名による。
また、日記『清慎公記』(『水心記』ともいう)を著していたことが『小右記』等の逸文によって知られる。なお、藤原公任が『清慎公記』の部類記を作成する際に書写せず原本を直接切り貼りしたため、部類記収録以外のものは反故になってしまい、元来の所持者であったと考えられる公任の従兄弟の藤原実資(公任,実資ともに実頼の孫)の憤激を買っている。その部類記も長和4年(1015年)の藤原教通邸焼亡の折に焼失したため現存していない。

 

 藤原北家小野宮流の祖である藤原実頼の嫡男として、関白太政大臣にまで登り詰める。しかし、天皇と外戚関係を得ることができず、摂関の座を従弟にあたる九条流の家系に独占されることとなり、子孫は栄達しなかった。始め母方の伯父である藤原保忠の養子となる。朱雀朝の天慶4年(941年)従五位下に叙爵し、翌天慶5年(942年)侍従に任ぜられる。右兵衛佐になっていた天暦元年(947年)、兄の敦敏が早世したのを受けて、急遽、当時左大臣に上っていた実頼の嫡男となる。
 応和3年(963年)参議に任ぜられ公卿に列した。参議昇進後も左右大弁を兼帯し、弁官への在任期間は13年の長きにわたる。この期間は、太政官の実務に当たることが長く、故実・実務に通じた公卿としての素養を磨いた期間でもあった。
 天禄元年(970年)、実頼の死後、摂政の座は、円融天皇の直接の外戚である伊尹に移るが、頼忠もなおも昇進して、上位の中納言である藤原兼家,橘好古を越えて権大納言に昇進し、左近衛大将を兼帯したのに続き、翌天禄2年(971年)正三位・右大臣に叙任された。天禄3年(972年)に伊尹が急死した際には、頼忠も関白候補の1人に挙げられたが、最終的には内覧宣下は伊尹の弟の兼通が受け(後に関白)、藤氏長者は頼忠が務めた。天延2年(974年)兼通が太政大臣となったことに伴い、頼忠は藤氏長者を兼通に譲った。
 兼通は不仲であった弟・兼家より頼忠を頼りとし、政務の細かいことまで互いによく諮った。貞元元年(976年)12月に兼通は頼忠を一上に任じた。兼通は、自分の死後に摂関家の嫡流の座を兼家の子孫に占められることを恐れて、頼忠を自らの後継にしようと考えていた。重病のために危篤となった兼通は、無理を押して参内して最後の除目を行い、頼忠は関白の器であるとして職を譲り、逆に兼家から要職である右近衛大将を奪い、同じ日に頼忠は藤氏長者に復した。それから程なく兼通は薨去した。
 関白となった頼忠だが、天皇との外戚関係がないことが弱味だった。一方、兼家が入内させた詮子は懐仁親王を儲け、ますます兼家に有利な情勢となった。雅信とも兼家とも連携することが出来なかった頼忠の関白としての政治力は限定的なものとなり、政治権力も円融天皇・頼忠・雅信・兼家の4つに割れる中で政局は停滞し、「円融院末、朝政甚乱」として後々まで伝えられるほどであったという。
 永観2年(984年)円融天皇は花山天皇に譲位した。新帝の補佐役として権中納言に抜擢されて将来の大臣・関白の資格を得た藤原義懐(花山天皇の叔父)が加わったことで、更に頼忠の立場を不安定にした。こうした中で積極的に親政を進めようとする天皇及びこれを補佐する義懐と頼忠の確執は深まり、この年の12月28日に出された「令上封事詔」では、「大臣重禄不諫」と書かれて頼忠以下諸大臣が天皇から糾弾される事態となっている。
 兼家は懐仁親王の即位を望み、寛和2年(986年)策謀を講じて花山天皇を出家退位させてしまう(寛和の変)。幼い懐仁親王が即位(一条天皇)すると、外祖父の兼家が摂政として朝政を完全に掌握するに至り、頼忠は関白を辞職。太政大臣の官職こそは維持したものの名目のみの存在と化した。
 永延3年(989年)6月26日に失意のうちに薨御。享年66。没後、正一位の贈位を受け、駿河国に封じられた。諡は廉義公。 

藤原公任 藤原定頼

 祖父・実頼,父・頼忠はともに関白・太政大臣を務め、母(醍醐天皇の孫)・妻(村上天皇の孫)ともに二世の女王。また、いとこに具平親王,右大臣・藤原実資,書家藤原佐理がおり、政治的にも芸術的にも名門の出である。 関白の子として将来を期待され、順調に昇進し、姉の遵子も円融天皇の皇后に立てられている。円融朝から花山朝にかけて昇進を続けた。
 しかし、寛和2年(986年)一条天皇の即位に伴って、父の頼忠は関白を辞任して藤原兼家が摂政となり、政治の実権が小野宮流から九条流に移る。また、兼家の息子で同い年の藤原道長はこの時点で従五位下の位階にあったが、翌永延元年(987年)には一挙に従三位まで昇進し、公任は瞬く間に位階を追い越されてしまっている。
 永延3年(989年)蔵人頭(頭中将)に任ぜられるが、この頃には公任の昇進は相当に停滞しており、同時期に蔵人頭を務めた藤原懐忠(1年4ヶ月),藤原道頼(1年3ヶ月),藤原伊周(5ヶ月)らが早々に参議として公卿に昇っていく中で、公任は3年半の間蔵人頭に留め置かれる。正暦3年(992年)8月になってようやく参議として公卿に列したが、一方で近衛中将を免ぜられている。公任は執政の道隆に対して不満を持ち、同じく道隆に反発していた道隆の弟・道兼とは親密であり、正暦5年(994年)には道兼の養女(実は昭平親王の娘)と結婚している。
 長徳元年(995年)の赤斑瘡の大流行や長徳2年(996年)の長徳の変を経て執政の座は藤原道長に移ると道長に接近するようになる。長保3年(1001年)8月に上席の参議3名(藤原懐平,菅原輔正,藤原誠信)を越えて中納言に任ぜられ、10月には正三位に叙せられている。
 寛弘年間前半には、勅撰和歌集『拾遺和歌集』が編纂されているが、公任の和歌は現存歌人中最多の15首が採録されている。歌壇における公任の影響力が極めて大きかったことが窺われる。寛弘6年(1009年)に藤原斉信と共に権大納言に昇進する。寛弘9年(1012年)4月に長女を藤原教通に嫁がせる。
 寛仁5年(1021年)左大臣・藤原顕光の薨去により大臣の席が2つ空き、下座の権大納言であった婿の藤原教通が内大臣に昇進し、大納言であった藤原実資が右大臣に昇ったため、正官の大納言が藤原斉信のみとなる。しかし、筆頭の権大納言であった公任は欠官のある大納言への昇進が叶わず、大臣の座はおろか昇進の限界へ来ていることが明らかになっていた。さらに、次女,長女を次々と亡くすが、公任は精神的に大きな痛手を受けたらしく、この頃より出仕をしなくなり、同年12月には権大納言の官職を辞任した。万寿3年(1026年)正月4日に弟・最円がいる洛北長谷の解脱寺で出家し、解脱寺から北に1町ほど離れた平地に山荘を営んで居住した。
 万寿4年(1027年)12月、藤原道長が没し、その政権を支えた四納言といわれる源俊賢,藤原行成,藤原斉信が亡くなり、公任が最後まで生き残った。長久元年(1040年)の年末より瘡湿にかかって10日ほど患ったのち、翌長久2年(1041年)1月1日薨去。享年76。

 中古三十六歌仙の一人。寛弘4年(1007年)、元服・従五位下。侍従,右少将,右中弁などを経て、寛仁元年(1017年)正四位下・蔵人頭に叙任。寛仁4年(1020年)参議・右大弁として公卿に列す。治安2年(1022年)従三位、長元2年(1029年)権中納言、長久3年(1042年)正二位。寛徳元年(1044年)病のため出家。
 少し軽薄な性格であったようで、小式部内侍にやり込められた逸話が残っている。相模や大弐三位などと関係を持った。音楽・読経・書の名手であり、容姿も優れていたという。
 長元5年(1032年)の『上東門院彰子菊合』、同8年(1035年)の『関白左大臣頼通歌合』などに出詠。『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に45首が入集。家集に『定頼集』がある。

藤原経家 藤原公定

 後一条朝の長元4年(1031年)従五位下に叙爵し、翌長元5年(1032年)侍従に任官する。
 少納言を経て、後一条朝末の長元9年(1036年)正五位下・右少弁に叙任されると、長暦4年(1040年)従四位下、長久4年(1043年)従四位上・右中弁、永承元年(1046年)正四位下、永承3年(1048年)蔵人頭兼権左中弁、永承5年(1050年)には正官の左中弁・平定親を超えて右大弁に任ぜられるなど、後朱雀朝から後冷泉朝にかけて弁官を務めながら昇進を重ねる。
 天喜4年(1056年)従三位に叙せられて公卿に列す。天喜6年(1058年)左大弁を経て、康平4年(1061年)参議に任ぜられた。議政官としても弁官を兼帯し、康平6年(1063年)正三位に至る。治暦元年(1065年)権中納言に昇任し、30年近くに亘って務めた弁官の職を離れた。
 後三条朝初頭の治暦4年(1068年)5月25日薨去。享年51。

 

 後冷泉朝の康平3年(1060年)従五位下に任ぜられ、康平6年(1063年)侍従、治暦2年(1066年)少納言に任ぜられる。以降も後冷泉朝末から後三条朝にかけて急速に昇進した。延久4年(1072年)白河天皇が即位して、弟の実仁親王が春宮に冊立されると、公定は春宮権亮に任ぜられ、正四位下に昇叙されている。後三条上皇が崩御後、しばらく叙任の記録が途絶えるが、応徳3年(1086年)には参議として公卿に列した。
 堀河朝では、寛治6年(1092年)20年振りに昇叙されてようやく従三位となったが、後任参議の源雅俊,藤原宗通,藤原季仲に権中納言昇進で後塵を拝すなど、公卿昇格後の昇進は遅滞した。承徳2年(1097年)正三位に至るが、承徳3年(1099年)7月1日薨去。享年51。
 『袋草子』には白河院が鳥羽殿にて9月13日夜に池上月という題で歌会を催したところ、公定は無月の歌を詠じたため「無月宰相」と呼ばれるようになった、との譚が記されている。また、曽祖父・公任の女が藤原教通に嫁して信長らを産んだことが知られているが、道長一家との縁戚関係が生じたことから公定は高松殿に住んでいたと考えられ、そのため居所にちなんで「高松宰相」とも呼ばれた可能性がある。

御神本国兼 藤原敦敏

 国兼の父は、有隆とも久通とも有定ともされる。永久2年(1114年)、国兼は石見国司に補任されて石見国に下向した。ところが、国兼は任が終わったあとも都に帰らず、石見国上府にに住して御神本を名乗るようになった。地域の有力者とする史料もあることから、地元の有力者との婚姻関係を結びながら土着化していったと考えられている。いまも、国兼が庇護を与えたという石見安国寺には、国兼,兼実,兼栄三代の墓と伝える古墳が残っている。
 ただ、『萩藩諸家系譜』の益田氏系図では、藤原氏でも真夏流の式部大輔実綱の孫が国兼となっている。
 源平の争乱では、御神本兼栄・兼高父子は西国では数少ない源氏方として各地に戦い、一の谷の合戦,壇ノ浦の戦いで勲功をあげた。これにより、石見国のうち、久富名,木束郷,益田庄,温泉郷,飯田郷など鹿足郡を除く全域を所領として与えられた。

 朱雀朝の承平5年(935年)元服。従五位下・右兵衛佐に叙任された後、天慶6年(943年)五位蔵人兼左近衛少将に任ぜられ、天慶8年(945年)父の藤原実頼が右近衛大将から左近衛大将に遷ったことから、敦敏は逆に左近衛少将から右近衛少将に遷る。
 天慶9年(946年)4月の朱雀天皇譲位により敦敏は五位蔵人を去るが、村上天皇が即位すると敦敏は五位蔵人に再任される。同年11月の大嘗会では悠紀国司(近江権介)を務めたことから正五位下に昇叙される。天暦元年(947年)11月17日疫病のため卒去。享年30。最終官位は右近衛少将正五位下兼行近江権介。
 世間の評判も非常に良かったが、天暦元年(947年)に流行した疫病にかかり、祖父・忠平や左大臣に昇進した直後の父・実頼に先立って早世した。死後東国より敦敏のために献上された馬が届き、それを知った実頼が悲嘆の歌を詠んだという。

藤原佐理

 三跡の一人で草書で有名。天暦元年(947年)佐理が4歳の時に父・敦敏が39歳で亡くなったため、祖父の実頼によって育てられる。応和3年(963年)頃に丹波守・藤原為輔の娘である淑子と結婚し、康保元年(964年)頃に長男の頼房が生まれたと想定される。右兵衛権佐・右近衛少将と武官を経て、康保4年(967年)冷泉天皇が即位し、養父・実頼が関白に就任すると従五位上に、翌安和元年(968年)大嘗会の悠紀国司(近江〈の賞として正五位下と続けて昇叙される。また、同年実頼の関白太政大臣辞任の上表文の清書を務める。摂関大臣致仕の上表文の執筆は能書家にとって重要な書写活動であったため、当時既に佐理は能書家としてある程度の地位を築いていたと想定される。
 天禄元年(970年)11月の大嘗会において佐理は悠紀・主基屏風の色紙型を書き、その功労により従四位下に叙せられる。貞元2年(977年)には焼亡から再建した新しい殿舎や門の扁額を揮毫し、円融天皇からその筆跡を感嘆されて勅禄を与えられると共に正四位下に叙せられるなど、円融朝の前半は弁官を歴任しながら順調に昇進し、天元元年(978年)参議に任ぜられ公卿に列した。
 天元5年(982年)になると、正月の東宮大饗を途中で早退、同じく正月に射礼の行事に使う矢の手配を失念、2月の女御・藤原遵子入内の供奉を怠る、伊予権守として伊予国の文書処置を怠るなど、この頃の佐理は放縦・怠慢になっていた様子が目立つ。祖父・実頼の生存中は実直に公事を務めていたが、実頼の没後は逆境の立場におかれて、不満が募っていたことが窺われる。なお、これら不始末の詫び状として書かれたのが『恩命帖』『国申文帖』である。さらに、同年2月には弾正忠・近光を自邸に拘禁してしまう。そこで、近光方は事情を関白・藤原頼忠に上申したことから、頼忠が佐理に消息を遣わすと、佐理は慌てて参入し、近光を放免することを約束した。この事件に対して藤原実資は、極めておかしなことで法官を拘禁するなど聞いたことがない、と批判している。このことから、佐理は理非を弁えない非常識な面があったと考えられる。永観元年(983年)円融天皇の御願寺である円融寺の落慶供養が行われた際、願文の清書を行う。円融朝末の永観2年(984年)再び造営された内裏の殿舎・門の扁額の揮毫を行い従三位に叙せられている。
 同年に花山天皇が即位しその大嘗会でも悠紀主基屏風の色紙型を書き、寛和2年(986年)の一条天皇の大嘗会でもみたび屏風の色紙型の筆を執った。一条天皇の即位に伴って、摂関の座は藤原頼忠から藤原兼家に移る。佐理は同じ小野宮流の頼忠には接近していろいろと交渉もあったが、九条流の兼家とは関係が希薄であまり交渉がなく、ますます不遇になったと見られる。永延2年(988年)東大寺の奝然がかつて入宋した際に受けた恩を謝すべく、弟子の嘉因を宋に派遣して皇帝(太宗)に物品を献上するが、その中に佐理の書2巻が含まれていた。花山朝から一条朝にかけては、天皇の外戚である藤原義懐(花山天皇外叔父)や、藤原道隆・道兼・道長兄弟(一条天皇外叔父)らに昇進で次々と先を越される中、正暦2年(991年)には大宰大弐に任ぜられる。大宰大弐は役得が多いものの、参議が任ぜられる場合は大抵が兼任となるところ、佐理は参議を解かれて大宰府へ赴任することになった。これは、当時の摂政・藤原道隆が嫡子の伊周のために参議の席を空けさせたものと想定される。佐理はこの異動に不満を持ったらしく、赴任にあたって道隆に挨拶もせず出発してしまうが、思い直して挨拶を忘れたとりなしを縁者に頼んで作成した書状が『離洛帖』として現在に伝わっている。
 正暦3年(992年)大宰府赴任を賞されて正三位に叙せられる。佐理の書跡を愛好していた一条天皇は佐理を九州へ下向させたことを後悔しており、佐理に手本を書かせるために、わざわざ九州に使者を派遣した。そこで、佐理は当地に下向していた源重之に詠んでもらった和歌を書いて一条天皇に献上している。しかし、正暦5年(994年)神人と乱闘したとして宇佐八幡宮から訴えられる。乱闘を起こした事情は明らかでないが、八幡宮の神人が神輿を担ぎ出し神威を笠に着て横暴をしようとした際に、これを防ごうとした大宰府官人が誤って神輿を射てしまった、あるいは、不輸不入を称する八幡宮の神領に対して大宰府が租税や課役を厳重に督促して争いに発展した等が考えられる。これに対して、左衛門権佐・惟宗允亮が大宰府使に任ぜられ、事実を究明するために九州に下向する。ここで、佐理は病気を理由に大宰府使との面会を拒絶し一言も弁明しなかったことから、朝廷に対する抵抗とみなされ、長徳元年(995年)10月に大宰大弐の官職を解かれた。帰洛後は大宰府での失策にもかかわらず、長徳3年(997年)朝参を許されて太皇太后宮権大夫に任ぜられる。
 長徳4年(998年)正月に兵部卿に再任されるも、参議に還任されることがなかった境遇を嘆いてか、愁訴状として『頭弁帖』を書いている。同年7月25日薨去。享年55。死因ははっきりしないが、この頃、疱瘡の猖獗により貴族階級の人々が多数没していることから、佐理も同様に病死したか。
 草書の第一人者として評価が高く、流麗で躍動感のある筆跡は「佐跡」と呼ばれ、小野道風,藤原行成と共に三跡の一人に数えられる。一方で酒を好みいいかげんな性格だったようで、現存する真跡は、不始末のわび状や言い訳の類が多い。