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藤原実頼 | 藤原頼忠 |
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摂政関白太政大臣を歴任した藤原忠平の長男として順調に栄達し、村上天皇のときに左大臣として右大臣の弟・師輔とともに朝政を指導して天暦の治を支えた。しかし、後宮の争いでは師輔に遅れをとり、外戚たることができなかった。冷泉天皇が即位すると、その狂気のために関白職が復活し実頼が任じられた。次いで円融天皇が即位すると摂政に任じられている。また、有職故実に通じ、小野宮流を創始した。
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藤原北家小野宮流の祖である藤原実頼の嫡男として、関白太政大臣にまで登り詰める。しかし、天皇と外戚関係を得ることができず、摂関の座を従弟にあたる九条流の家系に独占されることとなり、子孫は栄達しなかった。始め母方の伯父である藤原保忠の養子となる。朱雀朝の天慶4年(941年)従五位下に叙爵し、翌天慶5年(942年)侍従に任ぜられる。右兵衛佐になっていた天暦元年(947年)、兄の敦敏が早世したのを受けて、急遽、当時左大臣に上っていた実頼の嫡男となる。 |
藤原公任 | 藤原定頼 |
祖父・実頼,父・頼忠はともに関白・太政大臣を務め、母(醍醐天皇の孫)・妻(村上天皇の孫)ともに二世の女王。また、いとこに具平親王,右大臣・藤原実資,書家藤原佐理がおり、政治的にも芸術的にも名門の出である。 関白の子として将来を期待され、順調に昇進し、姉の遵子も円融天皇の皇后に立てられている。円融朝から花山朝にかけて昇進を続けた。 |
中古三十六歌仙の一人。寛弘4年(1007年)、元服・従五位下。侍従,右少将,右中弁などを経て、寛仁元年(1017年)正四位下・蔵人頭に叙任。寛仁4年(1020年)参議・右大弁として公卿に列す。治安2年(1022年)従三位、長元2年(1029年)権中納言、長久3年(1042年)正二位。寛徳元年(1044年)病のため出家。 |
藤原経家 | 藤原公定 |
後一条朝の長元4年(1031年)従五位下に叙爵し、翌長元5年(1032年)侍従に任官する。
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後冷泉朝の康平3年(1060年)従五位下に任ぜられ、康平6年(1063年)侍従、治暦2年(1066年)少納言に任ぜられる。以降も後冷泉朝末から後三条朝にかけて急速に昇進した。延久4年(1072年)白河天皇が即位して、弟の実仁親王が春宮に冊立されると、公定は春宮権亮に任ぜられ、正四位下に昇叙されている。後三条上皇が崩御後、しばらく叙任の記録が途絶えるが、応徳3年(1086年)には参議として公卿に列した。 |
御神本国兼 | 藤原敦敏 |
国兼の父は、有隆とも久通とも有定ともされる。永久2年(1114年)、国兼は石見国司に補任されて石見国に下向した。ところが、国兼は任が終わったあとも都に帰らず、石見国上府にに住して御神本を名乗るようになった。地域の有力者とする史料もあることから、地元の有力者との婚姻関係を結びながら土着化していったと考えられている。いまも、国兼が庇護を与えたという石見安国寺には、国兼,兼実,兼栄三代の墓と伝える古墳が残っている。 |
朱雀朝の承平5年(935年)元服。従五位下・右兵衛佐に叙任された後、天慶6年(943年)五位蔵人兼左近衛少将に任ぜられ、天慶8年(945年)父の藤原実頼が右近衛大将から左近衛大将に遷ったことから、敦敏は逆に左近衛少将から右近衛少将に遷る。 |
藤原佐理 | |
三跡の一人で草書で有名。天暦元年(947年)佐理が4歳の時に父・敦敏が39歳で亡くなったため、祖父の実頼によって育てられる。応和3年(963年)頃に丹波守・藤原為輔の娘である淑子と結婚し、康保元年(964年)頃に長男の頼房が生まれたと想定される。右兵衛権佐・右近衛少将と武官を経て、康保4年(967年)冷泉天皇が即位し、養父・実頼が関白に就任すると従五位上に、翌安和元年(968年)大嘗会の悠紀国司(近江〈の賞として正五位下と続けて昇叙される。また、同年実頼の関白太政大臣辞任の上表文の清書を務める。摂関大臣致仕の上表文の執筆は能書家にとって重要な書写活動であったため、当時既に佐理は能書家としてある程度の地位を築いていたと想定される。 |