<藤原氏>北家 小野宮流

F502:藤原実頼  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原実頼 ― 藤原斉敏 F505:藤原斉敏

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藤原斉敏 藤原高遠

 延長6年(928年)藤原実頼の3男として生まれる。当時、祖父・藤原忠平が左大臣として権力を振るい、延長8年(930年)摂政となる。その長男であった父・実頼も蔵人頭になり、延長9年(931年)早くも公卿に列した。3男である斉敏は、長兄・敦敏や次兄・頼忠に次いで天慶7年(944年)17歳で従五位下に叙爵している。
 天暦元年(947年)に敦敏が早世し、頼忠が嫡男となる。斉敏は天暦4年(950年)左兵衛権佐に任ぜられ、天暦5年(951年)従五位上、天暦7年(953年)正五位下と順調に昇進。天暦8年(954年)美濃権介を兼ね、翌天暦9年(955年)村上天皇の五位蔵人となる。同年従四位下に昇り、右近衛権中将,美濃権守を歴任する。
 天徳3年(959年)病により中将を辞任する。その間に頼忠は参議となり公卿に列し斉敏は遅れをとっている。康保3年(966年)春宮権亮に復し、父・実頼が関白となった康保4年(967年)に参議に任ぜられ公卿に列す。守平親王(のちの円融天皇)の春宮亮を兼任し、正四位下に進む。伊予守,治部卿,左兵衛督を歴任するが、父・実頼は外戚とならず思うように権力を握れずにいたため、昇進は停滞していた。
 天禄4年(973年)従三位・伊予守に叙任されるが、同年2月に頼忠に先立って46歳の若さで薨去してしまったため、最終官位は従三位・参議止まりとなった。

 中古三十六歌仙の一人。応和4年(964年)従五位下に叙爵。康保4年(967年)侍従に任ぜられた後、右兵衛佐,右近衛少将,近江介,民部権大輔を経て、天禄4年(973年)皇太子・師貞親王(のち花山天皇)の春宮権亮に任ぜられる。
 永観2年(984年)花山天皇の即位に伴い正四位下・右馬頭に叙任。内蔵頭,右兵衛督を経て、永祚2年(990年)従三位に叙せられ公卿に列す。兵部卿,左兵衛督と武官を歴任したのち、寛弘元年(1004年)大宰大弐に任ぜられ九州に下る。翌寛弘2年(1005年)には任国へ下向した労により正三位に叙せられるが、寛弘6年(1009年)筑前守・藤原文信に訴えられ、大宰大弐の職を停められて帰洛。長和2年(1013年)5月16日薨去、享年65。
 一条天皇の笛の師であり、三位に叙せられたのは笛の妙曲によるものだった。
 康保3年(966年)閏8月の三条左大臣頼忠前栽合に出詠。『拾遺和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に27首が入集。家集に『大弐高遠集』がある。

藤原懐平 藤原経通

 祖父・実頼が関白として公卿の筆頭にあり、また父・斉敏が参議となった康保4年(967年)に、元服とともに右衛門権少尉として出仕を始め、安和2年(969年)花山天皇の即位に伴い従五位下に叙爵。その後、実頼・斉敏が相次いで死去したものの、親族の推挽などもあり順調な官途を歩み、少納言,弁官,修理大夫を経て、寛和2年(986年)に造豊楽院の功により従三位に任じられ、非参議ながら公卿となった。
 ところが、この年に花山天皇が譲位したことで、摂関も懐平と同じ小野宮家の伯父・頼忠から、別系である九条家の藤原兼家に移ってしまった。その後は兼家派の人材の急速な昇進の一方で、懐平は長く非参議修理大夫のまま据え置かれ、長徳元年(995年)から翌年にかけて疫病などにより多くの公卿が亡くなったあとの補任でも、弟で実頼の養子となっていた実資が参議から権中納言、ついで中納言と昇任された一方、懐平には異動の機会はなかった。
 長徳4年(998年)になって参議に進んだものの、播磨権守,美作守を兼官するのみで、いくつかの造宮のほかには上卿となる機会にも乏しかったが、寛弘4年(1007年)藤原道綱が東宮大夫から東宮傅に転じた後任として、東宮・居貞親王(のちの三条天皇)の東宮大夫に任じられた。この任官により、その後の三条天皇との密接な関係が作られることとなり、寛弘8年(1011年)の三条天皇の即位とともに従二位に昇叙。ついで長和2年(1013年)には権中納言、長和4年(1015年)正二位に昇進した。
 三条天皇は公卿筆頭の左大臣・藤原道長との不和から、小一条家および小野宮家の人々を側近とし、懐平も小野宮家の一員として小一条家から皇后となった娍子の皇后宮大夫となって引き続き近侍した。このため、長和元年(1012年)に道長が病気となった際に、それを喜ぶ人々の一人に挙げられた。しかし一方で道長は、娘で三条天皇の中宮となっていた妍子の参内の際に、供奉しなかった数名の公卿の中に懐平の名も挙げて、年来親しくしているのにどうして来なかったのだろうと注記しており、懐平が温厚な人柄で敵を作らずに交際している様子もうかがえる。
 その後、天皇と道長の関係は、天皇の体調の悪化が進退と絡んで重大な局面を迎え、天皇は相撲節会の勝敗に皇位の安泰を賭ける思いを懐平に吐露するなど、側近として頼りとするが、この頃から懐平も体調不良に見舞われていたようで、長和5年(1016年)三条天皇の退位後に、兼帯していた皇后宮大夫および右衛門督を辞しており、翌年上皇より約1ヶ月前に死去した。享年65。

 一条朝前期の永祚2年(990年)従五位下に叙爵。侍従を経て、長徳4年(998年)右兵衛権佐、長保3年(1001年)従五位上・右近衛少将に叙任されるなど、若年時は武官を歴任する。
 寛弘2年(1005年)正五位下・右中弁に叙任されると、寛弘4年(1007年)従四位下,寛弘6年(1009年)権左中弁,寛弘8年(1011年)従四位上,寛弘9年(1012年)左中弁,長和2年(1013年)正四位下と一条朝後半から三条朝にかけて弁官を務めながら順調に昇進する。また、小野宮流出身でありながら、中宮権亮(中宮は藤原彰子)や春宮亮(春宮は敦成親王)なども兼ね、執政の左大臣・藤原道長の近親に仕えた。
 長和5年(1016年)敦成親王の践祚(後一条天皇)後まもなく、経通は蔵人頭(頭弁)に任ぜられる。頭を足かけ4年務め、寛仁3年(1019年)参議に任ぜられ公卿に列すが、弁官を解かれて左京大夫のみを兼ねた。翌寛仁4年(1020年)正月に従三位、11月に正三位と続けて昇叙され、のち議政官として治部卿,兵衛督,検非違使別当を兼帯したほか、大皇太后宮権大夫として再び藤原彰子にも仕えている。
 長元2年(1029年)権中納言に昇進すると、のち衛門督を兼ねる。長元7年(1034年)従二位,長暦元年(1037年)正二位といずれも天皇の上東門院への行幸に際して昇叙を受けており、女院となった藤原彰子に院司として仕えていた様子が窺われる。後冷泉朝初頭の寛徳3年(1046年)大宰権帥を兼ねて九州へ下向し、永承5年(1050年)までこれを務めた。
 永承6年(1051年)8月16日薨去。享年70。