<藤原氏>北家 冬嗣裔諸流

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藤原時平 藤原顕忠

 藤原基経の長男として生まれる。仁和3年(887年)、宇多天皇が即位すると、時平は蔵人頭に補せられる。阿衡事件以降、宇多天皇と藤原氏(基経)との間でしこりとなる。寛平の初め讃岐権守を兼ね、従三位に昇る。寛平3年(891年)、基経が死去。その際、時平が21歳と若年のため摂関は置かれず、宇多天皇の親政となった。また、藤氏長者は右大臣となっていた大叔父の藤原良世が任じられた。天皇は時平を参議とするが、同時に仁明天皇の孫の源興基を起用、それ以後も源氏を起用することで藤原氏を牽制。そして寛平5年(893年)、時平とは血縁のない敦仁親王を東宮に定め、外戚への道を封じた。同年、菅原道真を参議に起用する。道真は優れた学者として知られ、阿衡事件の際に、基経が橘広相の流罪を求めたときに上書して諫言した人物であった。しかしながら藤原北家の直系である時平は排斥されることはなく、左右衛門督,検非違使別当を経て、中納言に任じられ、右近衛大将,春宮大夫を兼ねて、次いで大納言に転じ、左近衛大将を兼ね、蔵人所別当に補し、正三位に叙すなど順調に昇進した。
 寛平9年(897年)、宇多天皇は譲位して醍醐天皇が即位した。宇多法皇は新帝に「時平は功臣の子だが、年若く素行が悪いと聞く、朕はそれを聞き捨てにしていたが、最近は激励して政治を習わせるようにしている。そのために顧問を備えて、よろしく輔導すべきである」と戒めた。それにより、醍醐天皇は権大納言の道真を起用して、時平とともに内覧を任せた。また、この年には前年の良世の致仕によって空席となった藤氏長者となっている。昌泰2年(899年)、時平は左大臣兼左近衛大将となるが、同時に道真も右大臣となり並んだ。学者の道真と貴公子の時平は気が合わなかった。時平は情に任せて裁決に誤りが多く、その都度に道真が異を唱えて対立するようになる。道真は後援者である宇多法皇をしきりに訪ねて政務を相談し、法皇は天皇に道真に政務を委ねるよう相談した。延喜元年(901年)、これを知った時平は大納言・源光と謀り、道真を讒言。醍醐天皇はこれを信じて道真を大宰権帥に左遷する(昌泰の変)。道真は2年後に大宰府で病死した。道真との確執については、個人的な嫉妬のみならず、律令制の再建を志向する道真と社会の実情に合わせた政策を採ろうとした時平との政治改革を巡る対立に求める意見がある。
 政変の直後に同母妹の穏子を醍醐天皇の女御として入内させた。また宇多法皇との関係も改善するよう努めている。時平は意欲的に政治改革に着手し、延喜2年(902年)、最初の荘園整理令を出す。また、六国史の最後となった『日本三代実録』や『延喜式』の編纂を行った。時平の治世は延喜の治と呼ばれている。延喜9年(909年)時平は39歳の若さで早逝した。そのため、道真の怨霊による祟りだといわれた。時平の死後、藤原北家の嫡流は弟の藤原忠平とその子孫へ移った。
 時平は好色も有名だったようで『今昔物語』には次の逸話が載っている。時平の伯父の藤原国経は在原業平の孫娘を北の方(妻)としていたが、その類い稀なる美貌の噂はすぐに時平の耳に届くところとなり、ある日、国経の邸を訪れて酒宴を開かせ、高齢の国経が酔い潰れた隙に北の方のもとを訪れ、北の方と時平の間に生まれたのが3男の藤原敦忠である。
 政治的には自らが権門勢家の頭領だったにも関わらず、荘園整理令を出す等意欲的に施政に取り組み、有能な政治家ではあったが、その能力を発揮できた期間は短く、他の兄弟が当時としては総じて長命だっただけに対し、その早逝は道真の怨霊と噂された。そして、時平の系統はいつしか、僧籍に入るか、中・下級官僚に甘んじるなどして歴史に埋もれることとなり、それが道真の比較的早い名誉回復に繋がったとの見方がある。 

 醍醐朝中盤の延喜13年(913年)従五位下に叙爵し、延喜15年(915年)周防権守に任官する。延喜17年(918年)従五位上、延喜19年(919年)右衛門佐に叙任されるが、その後の昇進は遅滞し、延長6年(928年)10年振りに昇叙されて正五位下となった。
 朱雀朝に入ると、延長8年(930年)従四位下・右中弁と文官に転じて、承平3年(933年)左中弁、承平6年(936年)従四位上と昇進する。同年に兄・保忠が没すると藤原時平の嫡男格となり、翌承平7年(937年)参議に任ぜられ公卿に列す。しかし、参議任官時の年齢は40歳と、他の兄弟と比べてもここまでの昇進は遅かった(兄・保忠は23歳、弟・敦忠は34歳)。議政官の傍らで、内蔵頭,刑部卿,左兵衛督を兼帯する。
 天慶4年(941年)上﨟の参議5人(藤原元方,源高明,源清平,藤原忠文,伴保平)を超えて従三位・中納言に昇任する。朱雀朝末にかけて左衛門督,検非違使別当などの武官を務める一方で、中宮大夫として皇太后・藤原穏子に仕えた。
 兄弟の中で唯一長命を保ち、村上朝に入っても天暦2年(948年)大納言、天暦4年(950年)正三位、天暦9年(955年)右近衛大将、天暦11年(957年)左近衛大将と昇進を続け、天徳4年(960年)従二位・右大臣に至る。
 康保2年(965年)4月24日薨御。享年68。没後、正二位の贈位を受けた。
 謙虚で控え目な人柄であったといい、饗応に使う家の広さ、外出時における先払いの下人の数、また使用する食器の質等、万事において大臣としては異例なほど質素に振る舞った。顕忠が時平の一族の中で唯一人、菅原道真の祟りを受けることもなく長命し得たのは、こうした慎ましさの賜物であると噂されたという。
 古事談に夜毎庭に出て天神を拝した話や、顕忠の家の大饗の際にあまりに家が見苦しいために尊者であった実頼も「風情のない所に来てしまった」と思ったが、引出物が自分の好みの馬であったため結果喜んだ、という話がある。

藤原元輔 藤原保忠

 左兵衛少尉,右衛門少尉,左近衛将監といった武官や六位蔵人を経て、朱雀朝末の天慶8年(945年)従五位下・侍従に叙任される。のち、天暦6年(952年)従五位上、天暦10年(956年)正五位下と昇進する傍ら、左兵衛佐,近衛少将や五位蔵人を務め、天徳2年(958年)には従四位下・右近衛中将に叙任される等、村上朝の中期以降は父・顕忠の昇進に伴って、元輔自身も武官を歴任しながら順調に昇進した。
 応和3年(963年)従四位上、康保4年(967年)左近衛中将を経て、安和元年(968年)冷泉天皇の蔵人頭に任ぜられる。しかし、安和2年(969年)円融天皇の即位に伴って蔵人頭に任ぜられた源保光,藤原為光が、翌安和3年(970年)に蔵人頭在任1年程で参議に任ぜられる一方で、元輔は蔵人頭を5年務めて天禄3年(972年)になってようやく参議に任ぜられ公卿に列している。
 元輔は時平の男系の孫では唯一公卿に列せられたが、円融天皇の摂政となっていた伊尹(太政大臣)を筆頭に兼家(権大納言),兼通(権中納言),為光(参議、元輔より2年早く任官)、他にも実頼の子である頼忠(右大臣),斉敏(参議)と既に忠平の孫世代では6人も公卿に列せられており、時平の系統はますます振るわなくなっていた。
 天延2年(974年)正四位下に叙せられるが、翌天延3年(975年)10月17日卒去。享年60。この後、時平の男系子孫で公卿に昇った者はなく、元輔が時平流で最後の公卿となった。

 八条大納言,八条大将,賢人大将と称された。
 延喜6年(906年)従五位下に叙爵し、翌延喜7年(907年)侍従に任ぜられる。醍醐朝の執政である左大臣・藤原時平の長男として順調に昇進、右近衛中将,右大弁を経て、延喜14年(914年)25歳で早くも従四位上・参議に叙任されて公卿に列す。延喜21年(921年)従三位・権中納言に叙任されると、延喜23年(923年)には中納言に昇進すると共に、甥の慶頼王(同母妹・藤原仁善子の子)が皇太子に立てられると、その春宮大夫に任ぜられる等、保忠は次期摂関の有力候補となった。
 しかしながら、延長3年(925年)慶頼王は立坊2年余りで即位することなく没し、また父・時平は既に早逝して、藤原氏の嫡流が叔父・藤原忠平に移っていたこともあり、延長8年(930年)保忠が正三位・大納言に昇進した際には既に41歳になっており、大納言昇進時の年齢としては従兄弟の実頼(40歳),師輔(35歳)に比べやや遅れた。
 一生の大半を、父・時平に讒言されて大宰帥に左遷された菅原道真の怨霊に怯えながら過ごしたとされる。保忠が病床に伏せ、祈祷のため僧侶に薬師如来の読経をさせた途中、宮毘羅大将の名前が出たことを聞いたところ、近衛大将である自分を縊ると読んでいるのだと思い、恐怖の余り気絶してしまったという。結局、保忠は大臣の官職を目前にしながら、承平6年(936年)7月14日に薨去。享年47という早逝であった。なお、他の時平の子も同様に短命であり、これは時平が菅原道真を無実の罪に陥れた報いであると噂された。
 保忠は御所から遠い八条の邸宅に住んでいたため、冬に遠い道のりを参内する際に、餅を焼いて温石のように肌に当てて暖を取り、餅が冷えてくると車副の家来に投げて与えていたという。
 笙の名手でもあり、その始祖とされる。祖父・基経から相伝され、少納言・豊原行見(有連)に相承した。延喜5年(905年)正月に醍醐天皇に対して笙の演奏を行い、賞されて「橘皮」という笙の名器を賜与された。
 近衛大将が騎馬に乗る際、近衛番長が騎馬を先駆けして雑人を追い払うのが通例であった。ある時、八条大将保忠が乗っていた馬が、先駆けしていた番長の馬につられて走り出してしまう。保忠は桃尻(鞍にすわりが悪い、落馬しやすい尻)であったために、落馬して冠を落として頭頂をさらす恥辱を受けてしまった。こののち長い間、番長が先駆する礼が行われなくなってしまったという。

藤原敦忠 藤原助信

 延喜21年(921年)従五位下に叙爵。侍従,少・中将を経て、承平4年(934年)蔵人頭。天慶2年(939年)参議に任ぜられ公卿に列し、同5年(942年)従三位・権中納言に至る。
 美貌であり、和歌や管絃にも秀でていたとされる。『後撰和歌集』や『大和物語』などに、雅子内親王(醍醐天皇皇女、伊勢斎宮)ほか多くの女流歌人との贈答歌が残されている。『後撰和歌集』(10首)以下の勅撰和歌集に30首入集。家集に『敦忠集』がある。管弦では、敦忠の死後、同様に管弦の名手であった源博雅が音楽の御遊でもてはやされるのを見た老人たちが、敦忠の生前中は源博雅などが音楽の道で重んぜられるとは思いもしなかったと嘆いた、との逸話が『大鏡』で語られている。
 比叡山の西坂本に音羽川を引き入れた別業(別荘)を有していたという。
 敦忠は北の方(藤原玄上の娘)を非常に愛していたが、ある時北の方に対して自らが短命でまもなく死ぬであろうこと、死後にはその北の方が敦忠の家令である藤原文範と夫婦になるであろうことを予言し、事実その通りになったという。
 醍醐朝後期の延喜21年(921年)従五位下に叙爵し、延喜23年(923年)侍従に任ぜられる。醍醐朝末の延長6年(928年)従五位上・左兵衛佐に叙任されると、右衛門佐,左近衛権少将と武官を経て、承平4年(934年)従四位下・左近衛権中将兼蔵人頭に任ぜられる。天慶2年(939年)従四位上・参議に叙任され公卿に列す。
 天慶5年(942年)には先任の参議4名(源高明,源清平,藤原忠文,伴保平)を越えて、一挙に従三位・権中納言に叙任されるが、翌天慶6年(943年)3月7日薨去。享年38。

 村上朝にて、六位蔵人兼右衛門尉を務めたのち、天暦9年(955年)ごろ従五位下・右近衛少将に叙任される。応和2年(962年)に五位蔵人に補任され、蔵人少将と呼ばれた。応和3年(963年)に従四位下に叙せられた。康保元年(964年)、為平親王子日の遊びに供奉して雉を捕え、康保3年(966年)に行われた殿上侍臣舞では皷を奉仕している。
 円融朝に入って、天禄2年(971年)内蔵頭として平野社祈雨奉幣使を、翌天禄3年(972年)円融天皇の元服に際しては能冠を務めている。右近衛中将に至ったと見られるが、円融朝で中将兼内蔵頭となったか。
 ほかに国司として備中国や因幡国へ下向している。備中国赴任の際に承香殿女御から扇,幣などが与えられたことを聞いた冷泉院との間で交わされた和歌が『新古今和歌集』に残っている。地方官を務めた時期は明らかでないが、康保3年(966年)10月から天禄2年(971年)6月、天禄3年(972年)正月以降、の両期間について諸記録に助信の活動記録が残っていないことから、この時期を赴任時期に比定する意見もある。
 康保3年(966年)4月末の駒牽の日に赤痢を発病。10余日の闘病の後、5月16日に卒去したともされる。
 村上天皇の信頼厚く、助信が湯治のため信濃国に赴く際には天皇から御製を与えられている。歌人として活躍し、天徳3年(959年)の殿上歌合、天徳4年(960年)内裏歌合、応和2年(962年)の内裏歌合などの各種歌合に参加。徽子女王,壬生忠見などとの交流が窺えるが、勅撰和歌集入集は『新続古今和歌集』の1首のみ。
 管絃の道にも長けて「管絃名人」と称せられた。中川にあったその邸宅は趣のあるもので、庭園には、池や遣り水さらには築山などがあったという。 

藤原相如

 生年は不詳だが、祖父・藤原敦忠や父・助信の年齢などから、天暦年間半ば(950年頃)生まれと推定される。天延2年(974年)に円融天皇の六位蔵人に補任される。この頃、保子内親王に仕える女房であった大納言の君(藤原伊尹の娘)と交際していたことが窺われる。その後、五位に叙せられて蔵人を退いたらしい。一条朝にて出雲守を務めたのちは散位。位階は正五位下に至る。
 藤原道兼に家司として仕え、その信頼も厚かったという。道兼は長徳元年(995年)4月27日に関白宣下を受けるが、間もなく病気となり5月8日に相如邸にて死去する。その悲しみのあまり相如も病を得て、道兼の四十九日の法要に立ち会えない無念さを何度も言いながら、道兼が没して僅か3週間後の同月29日に卒去。
 歌人として活動するが、生前は特に優れた歌人として認められた様子がなく、勅撰和歌集への入集(7首)も平安時代末に編纂された『詞花和歌集』以降となっている。娘も歌人として名を残している。家集に『相如集』があり、全65首のうち自身の手によるものと想定されるものが48首採録されている。歌合など公式な場における作品や屏風歌などはなく、主に後宮の女性たちとの贈答歌によって構成されている。
 大中臣能宣,清原元輔,菅原輔昭などとの交流が見られる。また、父・助信との贈答歌や父を悼む歌も存在する。