F422:藤原時平 | 藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原内麻呂 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原時平 ― 生駒家広 | F423:生駒家広 |
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生駒家広 | 生駒親重 |
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生駒の名字は大和国平群郡生駒を本貫とする。藤原良房の子孫が生駒の地に移り住み本拠とするようになり、後に生駒を名乗るようになった。室町時代に応仁の乱の戦禍から逃れるため、家広の頃に尾張国丹羽郡小折の地に移住したと伝えられる。一説では、藤原時平の曾孫・信義が生駒庄司となったことから生駒を称したともいう。 |
織田氏家臣で別名に信正。通称は土田甚助。土田政久の子、あるいは政久と同一人物ともいわれる。生駒豊政の養子になる。はじめ織田信康に仕え、後にその甥・織田信長に仕える。
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生駒親正 | 土田御前 |
織田信長の従兄弟にあたる。豊臣政権の三中老の一人。生駒親重の子として美濃国可児郡土田に生まれる。 |
土田政久の娘とされているが異説もある。一般的には佐々木六角氏後裔の土田政久の娘とされているが、当時の一次史料による裏付けはなく、後年、土田氏縁者の生駒氏腹である信雄系統の史料から土田政久の娘説が登場するようになる。そのため、当時の史料などにより複数の説がある。
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生駒一正 | 生駒家長 |
弘治元年(1555年)、織田家の家臣・生駒親正の長男として誕生した。初め織田信長に仕え、紀伊雑賀攻めなどで活躍した。信長死後は羽柴秀吉に仕えて数々の合戦に参加する。天正19年(1591年)、従五位下・讃岐守に叙任される。朝鮮出兵にも参加し、蔚山城の戦いなどで活躍した。 |
初め犬山城主・織田信清の配下であった。その後、妹の吉乃(類)が織田信長に見初められ側室に迎えられ、縁戚関係を結んだため、父と共に信長の家臣となり馬廻りとして仕えた。浮野の戦い,桶狭間の戦いなどで軍功を挙げた。元亀元年(1570年)4月、信長の越前国攻めに従軍した際、突きかかってきた敵から信長を身を挺して守り、負傷したといわれる。同年の姉川の戦いにも従軍。 |
生駒善長 | 生駒吉乃 |
生駒家長の3男として誕生。生まれた年については諸説あるが定説には元亀4年(1573年)生まれである。その後、伊勢国北畠家執権・山崎兵部少輔の婿養子となる。北畠家の滅亡後、織田信雄の従兄弟であったことから所領5000石はそのまま安堵されるも尾張国小折に戻った。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際は小折城を守備する。 |
織田信長の側室で、信忠(諸説あり),信雄,徳姫(諸説あり)の母とされる。名は『前野家文書』では吉乃(吉野)とされるが実名ではない。当時の女性の例に漏れず信頼の於ける資料が真偽論争のある前野家文書以外に殆ど残されていない。 |