F423:生駒家広 | 藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原内麻呂 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原時平 ― 生駒家広 ― 生駒高俊 | F424:生駒高俊 | ● |
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生駒高俊 | 生駒高清 |
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慶長16年(1611年)、讃岐国高松藩3代藩主・生駒正俊の長男として誕生。元和7年(1621年)7月、父・正俊の死去により家督を相続、ただし幼少のため外祖父である伊勢国津藩主・藤堂高虎の後見を受けた。寛永3年(1626年)8月19日には従四位下・壱岐守に叙任され、江戸幕府老中・土井利勝の娘を正室に迎えた。 |
万治元年(1658年)3月29日、父・高俊とともに矢島にいたものの、罪を許されて、矢島から江戸に移ることになった。江戸の屋敷は御徒町にあった。同年9月21日、将軍徳川家綱に拝謁する。万治2年(1659年)12月26日、高俊の死去により家督を相続した。ただし、実弟の俊明に伊勢居地2000石(伊勢居地家)を分け与えたため、知行は8000石となり旗本になった。江戸詰の交代寄合表御礼衆に列した。江戸城中の詰所は柳間となった。元禄7年(1694年)9月7日死去、52歳。墓は浅草の海禅寺。以後、代々の江戸における墓地になった。正妻を迎えず、子女もいなかった。そのため、親興が養子となり家を継いだ。 |
生駒親賢 | 生駒親敬 |
交代寄合・生駒親猶の長男として誕生した。享保16年(1731年)3月22日、将軍徳川吉宗に御目見する。宝暦3年(1753年)10月4日、親猶の死去により家督を相続する。宝暦11年(1761年)10月1日、幕府から輪王寺宮公遵法親王に従い上洛することを命じられる。明和8年(1771年)8月8日、隠居し、養子の親睦に家督を譲る。天明6年(1786年)6月28日、死去。70歳。 |
嘉永2年(1849年)11月7日、旗本・生駒親道の息子として生まれる。幼少期から聡明といわれた。安政2年(1855年)10月22日、家督を相続する。文久2年(1862年)12月1日、将軍・徳川家茂に御目見する。慶応2年(1866年)2月、幕府に領地へ帰国する許可を願う。 |