平安時代後期の武士。実父は伊與内供奉祐寛あるいは周防国の百姓であり、藤原国仲の養子となった。周防国の出身で幼名を今犬丸(あるいは千寿丸)といい、初め東大寺に侍童として仕えていたが、白河院が南都御幸の際にその眉目秀麗なるを見初め、寵童(男色相手)として召し出したという。以後、白河院に近侍し、元服して後は高階経敏に家人として仕える。北面武士としては寛治2年(1088年)『白河上皇高野御幸記』にその名が見え、『中右記』では康和4年(1102年)4月25日以降、検非違使在職が確認できる。 嘉承3年(1108年)には、藤原佐実が源仲政との乱闘の末に髻を切られるという事件に際し、白河院の意を受けた摂政・藤原忠実の命により、犯人を逮捕して名を挙げた。永久元年(1113年)、いわゆる「永久の強訴」に当たっては、平正盛,平忠盛,源為義,源光国らとともに興福寺大衆の鎮圧に派遣され、また同年、いわゆる「永久の変」に当たっては、鳥羽天皇呪詛の罪状を得た醍醐寺の僧・仁寛の逮捕にも当たっている。この功績により、検非違使尉の地位を嫡男の盛通に譲ることを許されている。のち、石見守,相模守,肥後守などの地方官を歴任し、位階は従五位上に至った。
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