<藤原氏>北家 良門流

F441:井伊共保  藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原内麻呂 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良門 ― 井伊共保 ― 奥山朝清 F446:奥山朝清

リンク
奥山朝清 奥山朝藤
 藤原北家井伊氏の一族で、遠江国引佐郡奥山郷から発祥した。井伊盛直の子・俊直が赤佐氏を称し、その曾孫の朝清が初めて奥山氏を称して奥山氏の祖となった。

 南北朝期、奥山六郎次郎朝藤は奥山城に拠って南朝方に味方した。そして、建武3(1336)年に奥山城に宗良親王を迎え、至徳元(1384)年には後醍醐天皇の皇子・円明大師を招いて奥山方広寺を開基した。朝藤の2男が定則で、井伊氏とともに南朝方に尽くし、延元3年に久頭郷城を築き、尹良親王に供奉した。
 定則の孫・能登守定之には4人の男子があり、嫡男の貞益は今川氏に属して久頭郷城主を継いだが、永禄12(1569)年、信濃遠山氏に攻められ落城し討死した。2男の定茂は水巻城主、3男・定吉は大洞若子城主、4男・定友は小川城主であったが、兄弟仲が悪く、互いに功防戦を繰り返した。
 元亀3(1572)年10月、武田信玄の遠江侵攻では、定吉の子・吉兼と弟の有定兄弟は武田氏に属し、奥山一党の本領を安堵され、吉兼には新領地として、現在の袋井市域と浜北市域を宛行われたが、信玄の死によって奥山氏の領国支配は貫徹するのが困難になった。その後、奥山氏は徳川氏に仕えるようになり、有定の孫・重定は、相月村に住み大阪の陣に参加し、のちに奥山代官となった宮崎氏の後見人となり、子孫は代々名主を務めた。小川城主・定友の子・友久は小川城主を継ぎ、永禄12(1569)年、徳川家康より本領安堵され、子孫は井伊氏に仕えた。