<藤原氏>北家 道隆流

F603:米津親勝  藤原道隆 ― 米津親勝 ― 米津政武 F604:米津政武

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米津政武 米津政容

 寛永15年(1638年)、米津田盛の長男として誕生した。貞享元年(1684年)、父の死去により家督を継ぐ。このとき、父から相続した1万5000石の所領のうち、3000石を弟の田賢に分与したため、1万2000石の大名となる。政武は武蔵埼玉郡久喜に藩庁を置いたことから久喜藩初代藩主となった。
 貞享4年(1687年)5月、寺社奉行に任じられるが、元禄元年(1688年)10月、勤務怠慢などを理由に罷免された。元禄11年(1698年)11月11日、長男・政矩に家督を譲って隠居する。宝永5年(1708年)6月26日、死去。享年71。

 天和2年(1682年)、初代藩主・米津政武の次男として誕生した。元禄11年(1698年)に父が隠居した際、家督は長兄の政矩が継ぎ、政容には別に上総国・下総国国内で1000石を分与されて寄合旗本に列した。その後は5代将軍・徳川綱吉の下で小姓並、次いで小姓として仕えていたが、政矩が元禄16年(1703年)に早世したため、その養子となって久喜藩の家督を継いだ。このとき、1000石は幕府に収公されたため、久喜藩は1万1000石となる。
 綱吉からの寵愛は深く、綱吉が亡くなるまで小姓を務めた。その後も大番頭を経て、享保14年(1729年)11月に大坂定番に任じられたが、在任中の元文4年(1739年)7月27日、大坂で死去した。享年58。跡を3男の政崇が継いだ。

米津政易 米津政敏

 文政12年(1829年)、庄内藩8代藩主・酒井忠器の10男として誕生した。嘉永6年(1853年)、先代藩主・米津政懿が死去したため、嘉永7年(1854年)にその養嗣子として跡を継いだ。同年12月に叙任する。
 白水川治水工事や開発工事、大崎七郎左衛門を登用しての茶や桑などの栽培による殖産興業奨励などによる民政に尽力した。また、大坂から陶工を招いて上ノ畑焼を興している。万延元年(1860年)5月9日、実弟・政明に家督を譲って隠居した。明治6年(1873年)9月26日、死去。享年45。

 嘉永4年(1851年)3月29日、長瀞藩4代藩主・米津政明の長男として誕生した。慶応元年(1865年)12月11日、父の隠居により家督を相続する。
 慶応2年(1866年)12月18日、従五位下・伊勢守に叙任される。戊辰戦争では庄内藩側に与し、慶応4年(1868年)閏4月に天童藩に陣屋を占拠されている。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により長瀞藩知事となる。同年11月、政庁を上総山辺郡大網村に、明治4年(1871年)2月にはさらに常陸河内郡龍ヶ崎村に移した。同年7月15日、廃藩置県により、知藩事を免官となる。
 維新後は陸軍戸山学校を卒業し、明治10年(1877年)に陸軍少尉、のち中尉に昇進して近衛師団文庫主管などを務めた。明治17年(1884年)子爵。明治22年(1889年)6月10日から翌明治23年(1890年)7月25日まで、梨本宮家の家令を務めた。明治23年7月10日、貴族院議員に当選して終生在任した。明治28年(1895年)10月30日、死去。享年45。