<藤原氏>北家 真夏流

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柳原資廉 柳原紀光

 柳原資行の第2子として京都に誕生。母は園基音の姫であり、同じく園基音の姫を母とする霊元天皇とは母方の従兄弟にあたる。資廉が柳原家歴代当主の中でも特に栄進したのはこれが大きな背景であった。はじめ方光という長男がいたが、病弱であったために資廉が代わりに柳原家の世子となる。柳原家は藤原北家真夏流の日野家の庶流で、名家(大納言まで出世できる家格)にあたる。南北朝時代に日野俊光の4男・日野資明が居住していた柳原殿を名字として起こした家柄である。
 資廉は、後光明天皇時代の1650年に叙爵された。1657年の元服とともにはじめて昇殿して111代・後西天皇に謁見。1672年に蔵人頭となり、1673年には参議・右大弁をつとめる。1681年から1687年までの間には権大納言として朝廷政治の中枢にあり、またこの間の1684年からは武家伝奏を兼務して江戸幕府との交渉に活躍し、1708年まで同職に在職した。官位は最終的に従一位まで昇進する。正徳2年(1712年)に死去。享年69。京都浄福寺に葬られた。
 新年が来ると幕府将軍は高家を名代として天皇と上皇(院)に対して新年祝賀の奏上を行い、天皇と上皇はそれに対する勅答の使者(天皇の使者は勅使といい、上皇の使者は院使または仙洞使という)を3月に江戸へ下向させるのが江戸時代の毎年の慣例であった。元禄赤穂事件があった1701年3月にはこの柳原と高野保春が東山天皇の勅使として下向していた。浅野長矩は幕府よりこの両名の接待係を命じられていたが、最も重要な勅答の儀が行なわれる3月14日に役目を放り出して凶事をおこした。このとき、幕府老中は穢れの中で勅答の儀を続行すべきか否か柳原に伺いを立てたが、柳原は「穢れ事に及ぶ事でもなく、苦しからず」として儀式続行を指示した。柳原のこの冷静さのおかげで、勅使饗応役は浅野長矩から戸田忠真に、場所は白書院から黒書院へと変えられながらも儀式は滞りなく執り行なうことができたのである。

 幼名は綱丸、初名は光房。妻は勧修寺顕道の娘・道子。歴史書『続史愚抄』の著者。
 寛延元年(1748年)叙爵して宝暦6年に侍従となる。以後蔵人頭,参議などを歴任して安永4年(1775年)に権大納言、天明元年(1781年)には正二位に昇進する。ところが、天明8年(1789年)些細なことから突如、光格天皇より勅勘解官処分を受けて宮廷から追放されてしまう。2年後に復帰を許されるものの、以後は出仕をせずに父が遺した歴史書編纂事業に専念する決意をする。
 そもそも柳原家は藤原北家日野流の名家で学問の家として知られていたものの、一時家系が断絶したこともあってその学問は衰えていた。紀光の父・光綱は六国史以後、官による正史編纂が断絶しており、公家社会による編纂も『百錬抄』(亀山天皇時代)以後断絶していることを嘆き、自らの手で以後の歴史書編纂を志していたが、果たすことなく病死していた。紀光はその遺志を継いで歴史書編纂を志したのである。
 寛政10年(1798年)、22年の歳月をかけて亀山天皇から先代の後桃園天皇の時代までを扱った歴史書『続史愚抄』81冊を完成させた(なお、同書は北朝正統論を取っており南朝の天皇を認めていない)。また、紀光のもう1つの業績として、貴重な歴史書を写本・校訂し後世に伝えたことも挙げられる。『皇代暦』や『武家年代記』の現在の底本は、紀光が原本から写本したものとされ、原本が失われてしまったとされる今日では貴重なものとされている。また、六国史の『日本後紀』の現在の諸書も紀光が三条西家から書写・校訂したものが底本になっているという説がある。紀光が『続史愚抄』編纂のために用いたと見られる史料は柳原家に伝えられて、今日でも東京大学史料編纂所に所蔵されている。他には日記『紀光卿記』(『愚紳』)、随筆『閑窓自語』などが残されており、公家社会や自然科学などに関する紀光の広い関心が垣間見られる。『続史愚抄』完成の前年に出家した紀光は寛政12年(1800年)に55歳で没した。

柳原前光 柳原愛子

 明治天皇に仕え、大正天皇の生母である柳原愛子は前光の妹である。白蓮事件で有名になった歌人の柳原白蓮は前光の次女(妾で芸者”おりょう”との間の子)である。また、前光の長女・信子は入江為守子爵に嫁いだので、昭和天皇の侍従長でエッセイストとしても有名な入江相政は前光の孫にあたる(相政は入江為守・信子夫妻の3男)。
 1868年(慶応4年)、戊辰戦争では東海道鎮撫副総督となる。同年3月には天領であった甲斐国へ入国し、甲府城で職制を定め、同年11月まで城代を廃し甲府鎮撫使を務めている。明治維新後は外務省に入省、外務大丞として日清修好条規を締結する。西南戦争では勅使として鹿児島入りし島津忠義,島津珍彦と会見している。
 その後、元老院議官となり刑法・治罪法審議に従事し、駐露公使,賞勲局総裁,元老院議長を務める。さらに枢密顧問官となって皇室典範の制定に関与したが45歳で死去。

 明治天皇の典侍。大正天皇の生母。位階の正二位をもって二位の局と呼ばれた。死後、従一位を追叙されたことから一位の局と呼ばれることもある。女房名は梅ノ井,早蕨内侍など。「筑紫の女王」と呼ばれた柳原白蓮は姪にあたる。
 1870年(明治3年)、皇太后宮小上臈として出仕し、掌侍(勾当内侍)を経て1873年(明治6年)に権典侍となった。 明治天皇の宮人となって、第二皇女・梅宮薫子内親王,第二皇子・建宮敬仁親王,第三皇子・明宮嘉仁親王を出産したが、のちに大正天皇となる嘉仁親王のみが成人できた。1902年(明治35年)に典侍に任官。
 嘉仁親王の即位後、1913年(大正2年)7月に正三位皇后宮御用掛・御内儀監督となり、1915年(大正4年)12月1日、従二位に叙された。1925年(大正14年)5月10日、勲一等(瑞宝章)を授けられた。1926年(大正15年)12月25日、大正天皇が崩御し、孫である昭和天皇が践祚した。1940年(昭和15年)2月11日、勲一等宝冠章を受章。1943年(昭和18年)10月16日薨去。同日、従一位に追叙。享年84。墓所は東京都目黒区中目黒五丁目の祐天寺にある。
 和歌に優れ、宮中歌会始に3回撰歌したという。明治天皇の崩御後は準皇族の扱いを受け、大正天皇臨終の際、貞明皇后の配慮によって枕辺で別れを告げたという逸話を残す。ただし住まいについては宮城内はもとより赤坂御用地内にも置かれず、宮邸の扱いも受けずに四谷左門町に質素な邸宅を構えていたのみであった。
 大正天皇が暗愚であったという風説は大正時代からあり、その遺伝的な根拠を柳原愛子に求め、非難する傾向があった。

柳原義光 柳原燁子

 1876年(明治9年)、柳原前光伯爵の長男として生まれる。母は正室で伊達宗城の次女の初子。慶應義塾に学び、1894年(明治27年)、父の死去により18歳で伯爵家を継ぐ。1896年(明治29年)、明治天皇に拝謁して天盃を賜り正五位。宮中御用掛、日露戦争の功により勲等を受ける。1904年(明治37年)7月10日、貴族院伯爵議員となる。
 1921年10月(大正11年)、異母妹の燁子(白蓮)が白蓮事件を起こしたことから、翌1922年(大正12年)3月2日に貴族院議員を引責辞職する。事件発生から辞職まで半年近くを要したのは、義光が議員職に執心して速やかな辞職を促す周囲の説得に頑として応じなかったためであった。宮内官僚らの説得に抵抗する義光は「先帝に畑を提供した」云々の暴言まで吐き、あげく「やめてやるから金をくれ」などと数々の放言をして顰蹙を買い、憤る官僚らに義光は少しくらい黒龍会に脅かされた方がよいと非難されている。義光の話を聞いた叔母の愛子は、それがあまりに不条理なので、義光の義弟にあたる入江為守(妹・信子の夫)を呼んで義光の不心得を説いたという。
 議員辞職後は日本教育生命保険,大正生命保険の社長となるが(両社ともに専務は金光庸夫)、華族としての信用を利用するために担がれた社長職であり、負債を累積させて逆に運転資金を捻出する羽目になり、昭和の始め頃には麻布桜田町の本邸を売却している。1925年(大正14年)7月10日から貴族院議員に復帰し、終生伯爵議員を務める。
 1933年(昭和8年)9月、男色相手であった新派の元役者の男に手切れ金を脅し取られる事件が発覚する。新聞にすっぱ抜かれたこの醜聞記事は昭和天皇の目に止まり、側近に下問があったという。さらに同年11月に次女・徳子の不良華族事件が新聞沙汰となり、柳原家は醜聞まみれとなる。宮内省宗秩寮で柳原家の処分が検討されるが、義光の男色に関しては証拠不十分として処分はされなかった。
 義光は醜聞もあったが国士気質な面もあり、「国家の大事の前に、私事に拘泥すべきではない」という説得を受けて、義絶状態であった妹・燁子と1935年(昭和10年)に和解している。
 1946年(昭和21年)1月24日、69歳で死去。義太夫や詩を嗜み、崋山と号した。 

 大正三美人の1人。父は柳原前光伯爵、母は前光の妾のひとりで没落士族の娘で柳橋の芸妓となっていた奥津りょう。東京に生まれた。大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたる。
 父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから燁子と名付けられる。燁子は生後7日目に柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍され、当時の華族の慣習としていったんは里子に出されたのちに柳原家に再び戻り、養育された。1888年(明治21年)、生母・りょう病死。1892年(明治25年)、麻布南山小学校に入学。1898年(明治31年)、華族女学校(のちの女子学習院)に入学。燁子は最初の結婚まで自分が妾の子とは知らなかったという。また前光には、りょう以外に年来の妾・梅がおり、子宝に恵まれなかった梅はりょうを妹のように、そしてりょう死後は燁子をわが子のように大変可愛がっていたとも言われる。
 1900年(明治33年)、14歳で、子爵・北小路随光とその女中の間に生まれた嗣子の資武と結婚し、1901年(明治34年)、15歳で男子・功光を出産した。しかし知的障害があったといわれる資武とは早期に夫婦関係が拙くなり、5年後に離婚。実家に戻った。1908年(明治41年)、東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に入学し寮生活をおくる。佐佐木信綱に師事し「心の花」に短歌を発表し始めた。
 燁子は1911年(明治44年)、27歳で、52歳の九州一の炭坑王として財をなし、政友会の代議士であった伊藤鉱業社長・伊藤伝右衛門と再婚させられた。これは兄・義光が貴族院議員に出馬するため資金が必要だったことと、名門との関係を結びたかった伊藤の思惑が一致した政略結婚と目されたが、当時の新聞では片や名門華族、もう一方は飛ぶ鳥落とす勢いの炭鉱成金同士の結婚ということで“黄金結婚”と大いに祝福された。伊藤は飯塚市幸袋に敷地1500坪、建坪250坪の自宅があったが、さらに福岡市天神と別府市青山に屋根を銅で葺いた別邸(どちらも赤銅御殿と呼ばれた)を建て、燁子を迎え入れた。こうして燁子は「筑紫の女王」と呼ばれるようになった。しかし複雑な家族構成に悩まされる。伊藤家には妾の子,父の妾の子,妹の子,母方の従兄妹などが同居していた。また数十人もの女中や下男や使用人たちもいた。伊藤は何人もの妾がいたが、京都妻のサトの妹のユウにまで手を付けた。ユウは女中見習いとして幸袋の屋敷にいたが、伝右衛門の手が付いたことから燁子はユウをあてがう形となった。後年、白蓮は、夫を挟んで夫の妾と3人で布団を並べていたこともあると告白している。そんな懊悩、苦悩を燁子はひたすら歌に託し「心の花」に作品を発表しつづけた。
 1915年(大正4年)、処女歌集『踏絵』を自費出版。号を「白蓮」(信仰していた日蓮にちなむ)とした。その浪漫的な作風は多くの読者を惹き付け、白蓮は歌人として名が知られるようになり、大正三美人(他は九条武子と江木欣々、あるいは林きむ子)の1人として知られるようになった。別府の赤銅御殿は白蓮を中心とするサロンとなった。
 1918年(大正7年)、戯曲『指鬘外道』を雑誌「解放」に発表。これが評判になり、劇団が上演を希望、その許可を求める書状が届いた。差出人は「解放」記者の宮崎龍介だった。龍介の父は孫文の辛亥革命を支援した宮崎滔天、宮崎も東京帝国大学で「新人会」を結成し、労働運動に打ち込んでいた。1920年(大正9年)1月31日、別府の別荘で白蓮に会った宮崎は、情熱を込めて社会変革の夢を語った。それを機に、白蓮は春秋2回の上京の機会に宮崎と逢瀬を重ねて、やがて白蓮は宮崎の子を宿した。姦通罪のあった男尊女卑のこの頃、道ならぬ恋は命がけだった。
 1921年(大正10年)10月20日、白蓮は伝右衛門と上京した機会に姿を消し、2日後の10月22日の大阪朝日新聞は「筑紫の女王、柳原白蓮女史失踪!」と報じた。同日の夕刊には白蓮名義で公開絶縁状が掲載された。これは白蓮が書いた手紙を龍介の友人が書き直したものであり、友人たちによって公開が以前から計画されていたという。しかし、絶縁状の公開は大きな社会的反響を呼び、当時の世論は白蓮を激しく非難する声で満ちた。特に国家主義の、黒龍会の内田良平らは、国体をゆるがす大事件として白蓮や柳原家を攻撃した。この一件により、兄・義光は貴族院議員を辞職することとなった。白蓮は男児(香織)を出産した後、断髪し尼寺に幽閉の身となった。ただ、伝右衛門は白蓮に手を出すことを禁じ、白蓮を話題にすることも許さなかった。
 1923年(大正12年)、白蓮は華族から除籍され、財産も没収されて伊藤との離婚が成立した。当時、白蓮母子を預かっていた中野家は、柳原家が娘に何の援助もしないのに対し、宮崎家が定期的に白蓮のために仕送りをしていたことに感服し、柳原家の承諾なしに、宮崎に白蓮たちを引き取らせたという。宮崎と結婚、長男・香織を伴い親子3人の生活が実現した。夫は結核を発症したときには白蓮は筆一本で必死に家計を支えた。
 1925年(大正14年)には長女・蕗苳が誕生。宮崎は結核から回復して、その後、弁護士として活躍した。1945年(昭和20年)8月11日、長男・香織が鹿屋で戦死した。このことがきっかけとなり、戦後は平和運動に参加、熱心な活動家として知られた。
 1961年(昭和36年)、緑内障で両眼失明したが、宮崎の介護のもとに歌を詠みつつ暮した。1967年(昭和42年)に死去(81歳)。スキャンダルの末、没落した実家・柳原家を後目に、晩年は平穏で幸せな生涯であった。 

柳原博光

 日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。伯爵。
 東京都出身。大原重朝伯爵の3男として生まれ、柳原義光伯爵の養子となる。学習院を経て、1911年7月、海軍機関学校(20期)を優等で卒業し、翌年12月、海軍機関少尉任官。1917年12月、海軍大学校機関学生となり、1919年12月に卒業した。
 巡洋戦艦「伊吹」分隊長、機関学校教官を経て、1922年5月から1924年7月までイギリスに駐在した。帰国後、連合艦隊参謀,機関学校教官,海大教官,ジュネーヴ会議随員を歴任。1927年12月、海軍省軍務局員となり、同局第3課長を経て、1931年12月、機関大佐に昇進し燃料廠製油部長となった。その後、軍需局第2課長,アメリカ駐在・艦政本部造兵造船監督長,商工省燃料局第2部長などを歴任し、1937年12月、海軍少将に進級した。太平洋戦争を第1燃料廠長として迎え、1941年10月、海軍中将となった。その後、機関学校長を勤め、1944年10月、機関学校が海軍兵学校に統合され舞鶴分校となり分校長に就任。同年12月、予備役に編入された。
 その後、帝国石油副総裁を勤めた。1946年2月、養父の死去に伴い伯爵を襲爵した。