<神皇系氏族>天神系

NT24:大中臣忠時  中臣阿麻毘舎 ― 中臣御食子 ― 中臣名代 ― 大中臣真助 ― 大中臣忠時 ― 河辺長藤 NT25:河辺長藤

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河辺定長 河辺精長

 正保3年(1647年)、13歳のとき、実の祖父・河辺辰長の跡を継いで大宮司に就任する。その後、承応2年(1653年)、20歳のとき、出自について大中臣氏二門であることが条件となっていた祭主に、一門出身でありながら就任した。翌年には、出口延佳の『陽復記』を後光明天皇の叡覧に入れたことがきっかけとなって、定長は神祇権大副に任じられた。
 明暦元年(1655年)、定長は罹病し、祭主としての職務を行えなくなった。嗣子の無い定長は、北小路俊臣の次男を改姓させ、祭主後継として養子に迎え入れた。これに対して大宮司河辺精長が反発したことにより、後継を何年も決めることができず、その最中に27歳で卒去した。

 伊勢の山田(現在の三重県伊勢市)に生まれる。若くして出家し大中臣氏と名乗ったが、伊勢神道の興隆に興味を持ったため、還俗し出口延佳から神道を学ぶ。
 これによって伊勢神宮の神職となり、1653年(承応2年)に大宮司となり従五位下に叙せられた。伊勢神宮の外宮,内宮の摂社を修築したりする等一躍名を馳せた。死去から丁度250年後の1928年(昭和3年)には昭和天皇により従四位下に叙せられる等、死後も多くの人々から尊敬される神職であった。著書に『寛文摂社再興記』がある。