F318:日野資宣 | 藤原真夏 ― 日野資業 ― 日野実綱 ― 日野有信 ― 日野資長 ― 日野資宣 ― 柳原資明 | F328:柳原資明 |
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柳原資明 | 柳原資綱 |
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「柳原殿」と称される邸宅に住んでいたため、柳原を家名とした。正安3年(1301年)に従五位下に叙任され、文保元年(1317年)に花園天皇の蔵人に任じられて以後は、専ら持明院統の天皇・上皇に仕えた。後に右大弁,左大弁,参議を歴任後、光厳天皇のもとで正三位権中納言にまで上るが、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の建武の新政によって昇進人事を無効とされると、これに激しく反発した。足利尊氏によって光明天皇が擁立され光厳上皇の院政が開始されると、改めて権中納言に任じられて、以後北朝の有能な実務官僚として活躍した。延元2年/建武4年(1337年)に権大納言に上った。貞和2年/正平元年(1346年)に一旦は引退したものの、2年後には光明上皇の、さらに観応の擾乱後には崇光上皇の別当を務めた。 |
応永26年(1419年)、柳原行光の子として誕生。文安6年(1449年)3月28日、参議に任じられる。応仁の乱頃より柳原家の家計は、諸国の知行地が押領され困窮するようになった。そのため、主要な経済基盤のあった因幡国法美郡の知行地に自身らが下向、子・量光と共に所領の経営を直接行った。 |
町 資将 | |
初名は資雄。早くから既に死去していた外祖父・町広光の嗣子として高辻家より養子に入る予定があったためか、高辻家の通し字である「長」が名前に用いられていない。 |