<藤原氏>北家 真夏流

F319:日野資名  藤原真夏 ― 日野資業 ― 日野実綱 ― 日野有信 ― 日野資長 ― 日野資宣 ― 日野資名 ― 日野重光 F320:日野重光


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日野義資 日野宗子

 応永14年(1407年)11月19日、足利義満の北山第において元服が行われ、義満自身が烏帽子親となって「義」の偏諱を授けた。これは義資が義満の正室・日野康子の甥であったことによるが、当時上の一字を授けることは破格の待遇を意味していた。
 足利義教が6代将軍に決定すると、義教の御座所として自宅の裏松邸を提供した。また、義持夫人・日野栄子と協議して、妹の宗子を義教の正室に立てている。しかし、義教が将軍になると青蓮院門跡時代の義教に不忠の廉があったとして、所領を2ヶ所没収され、蟄居を命じられた。将軍の御台所となった宗子は義教と不仲であり、永享3年(1431年)に離別されている。その後、もう一人の妹・重子が義教の側室となった。
 重子が嫡子・千也茶丸を産んだとき、蟄居していた義資の屋敷に人々が次々と祝いに訪れた。しかし、義教はこれに激怒し、祝いに訪れた者すべてを処罰する。そして永享6年(1434年)6月9日、義資は何者かに殺害され、首を持ち去られた。犯人は捕まらず、当時から義教の指示であるという噂が流れていた。なお、この噂をした参議・高倉永藤は硫黄島に流されている。
 家督を継いでいた嫡男・重政もこの際に所領を没収されて出家しており、日野家は一時没落した。

 室町幕府第6代将軍・足利義教の正室(御台所)。後に離別させられて出家、観智院と名乗った。
 第4代将軍であった足利義持の死後、弟の義円が還俗して将軍を継いで「義教」と称した。ところが、僧侶であった義教は妻帯しておらず、直ちに正室を立てる必要が生じた。そこで義持の正室・日野栄子が一族の日野義資(重光嫡男)と図って正室として嫁がせたのが義資の妹である宗子であった。還俗から1ヶ月も経たない応永35年(1428年)閏3月6日に正式に御台所に定められ、正長元年(1428年)6月21日に婚儀が執り行われた。永享元年(1429年)3月12日には女子を出産し、翌年1月28日には三品に叙せられた。ところが、この婚姻そのものが義教の後見人である日野栄子によって決められたものであり、その夫婦仲は良くなかった。義教は次第に側室の正親町三条尹子に心を移していく。
 そして永享3年(1431年)6月5日、義教は突如として尹子に御台所の身分を与えることを宣言する。以後、宗子は「本台所」、尹子は「新台所」と呼ばれ、正室が2人いる状態となった。更に7月26日には2人の間の唯一の子供である娘が死去、続く翌27日には日野栄子も病死した。これを機に義教は宗子との離別を決意、同年中に宗子は離別を言い渡されて御所を去り、日野家に対してはその妹の日野重子(後の義勝,義政の生母)を側室に迎えることで代償とした。
 その後の動向は不詳であるが、『康富記』に文安4年4月29日条に出家して観智院と名乗った宗子がこの日に死去したことが記されている。

日野重子 日野重政

 室町幕府6代将軍・足利義教の側室。永享6年(1434年)に義勝、永享8年(1436年)に義政を産む。嘉吉の乱で夫・義教が殺害された後、幼年の義勝や義政を補佐して幕政に関与し、義政の寵愛を受けた乳母・今参局と対立した。今参局は義政正室・富子の産んだ子が早世したのが彼女の呪詛のためとされて流刑にされ、長禄3年(1459年)自害させられるが、これは富子の指示とも重子の指示とも言われる。
 寛正4年(1463年)8月8日に死去。それに伴い、斯波義敏,畠山義就が赦免された。

 最初は政光と名乗っていた。法名は壷尊。位は蔵人右少弁・贈従二位内大臣。
 父・義資が6代将軍・足利義教に蟄居を命じられ、家督を継ぐ。1434年(永享6年)に義資が6代将軍・足利義教に暗殺されたため出家し、所領を没収された。
 叔母・重子の計らいで家督は嫡男の勝光が継いだ。のち、還俗して重政と名乗り、娘・富子をもうけた。

日野富子 日野勝光

 康正元年(1455年)8月27日に16歳で義政の正室となり、長禄3年(1459年)1月9日には第1子が生まれるが、その日のうちに夭折。それを義政の乳母の今参局が呪いを掛けたせいだとし、彼女を琵琶湖沖島に流罪とし(本人は途中で自刃)、義政の側室4人も追放した。
 富子は寛正3年(1462年)と翌4年(1463年)に相次いで女子を産むが、男子を産むことはできなかった。寛正5年(1464年)に義政は実弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ、名を足利義視と改めさせ細川勝元を後見に将軍後継者とした。しかし、翌寛正6年(1465年)に富子は義尚を出産、富子は溺愛する義尚の擁立を目論み、義尚の後見である山名宗全や実家である日野家が義視と対立した。これに幕府の実力者の勝元と宗全の対立や斯波氏、畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発した。
 富子は戦いの全時期を通じて東軍側にいたが、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機も行うなどして一時は現在の価値にして60億円もの資産があったといわれる。
 文明3年(1471年)頃には室町亭に避難していた後土御門天皇との密通の噂が広まった。当時、後土御門天皇が富子の侍女に手を付けていたことによるものだが、そんな噂が流れるほど義政と富子の間は冷却化していた。
 文明5年(1473年)に宗全と勝元が相次いで死去、義政が隠居して義尚が元服して9代将軍に就任すると、兄の日野勝光が新将軍代となった。義政は完全に政治への興味を失い、文明7年(1475年)には小河御所を建設して1人で移った。文明8年(1476年)に勝光が没すると、富子が実質的な幕府の指導者となった。「御台一天御計い」するといわれた富子に八朔の進物を届ける人々の行列は1,2町にも達した。11月に室町亭が焼失すると義政が住む小河御所へ移る。しかし、富子と義尚が移った直後に、義政は長谷聖護院の山荘に移ってしまった(その後長らく義政とは別居)。
 文明9年(1477年)にようやく西軍の軍は引き上げ、京都における戦乱は終止符を打ったが、この翌日、富子は伝奏・広橋兼顕に「土御門内裏が炎上しなかったのは、西軍の大内政弘と申し合わせていたから」という趣旨の発言をしている。
 長禄3年(1459年)以降、京都七口には関所が設置され関銭を徴集していた(京都七口関)。この関所の設置目的は内裏の修復費、諸祭礼の費用であったが、富子はほとんどその資金を懐に入れた。これに激昂した民衆が文明12年(1480年)に徳政一揆を起こして関所を破壊した。富子は財産を守るために弾圧に乗りだし、一揆後は直ちに関の再設置に取りかかったが、民衆だけでなく公家の怨嗟の的となった。
 義尚は成長すると富子を疎んじ始め、文明15年(1483年)には富子をおいて伊勢貞宗邸に移転し酒色に溺れた。このため富子は一時権力を失った。しかし延徳元年(1489年)に六角高頼討伐(長享・延徳の乱)で遠征中の義尚が25歳の若さで没した。息子の急死に意気消沈したが、富子は義視と自分の妹の間に生まれた足利義材(後の義稙)を将軍に擁立するよう義政と協議し、同年4月に合意が行われた。延徳2年(1490年)正月に義政が没すると、義材が10代将軍となった。しかし後見人となった義視は権力を持ち続ける富子と争い、富子の邸宅小河邸を破壊し領地を差し押さえた。翌年の義視の死後、親政を開始した義材もまた富子と敵対した。
 明応2年(1493年)、義材が河内に出征している間に富子は細川政元と共にクーデターを起こして義材を廃し、義政の甥で堀越公方・足利政知の子・足利義澄を11代将軍に就けた(明応の政変)。その3年後、明応5年(1496年)に57歳で死亡した。

 父・政光が出家したため6歳で家督を相続。 妹である富子を将軍・義政の正室に入れ、足利義尚の将軍職就任に寄与して、さらに娘を義尚の夫人に入れる。左大臣まで昇進した。蓄財にもはげみ、その権威の大きさから「押大臣」と評される。
 文明8年(1476年)没。法号は唯称院。

日野内光 日野晴光

 明応4年(1495年)、日野家24代・日野勝光の子・政資が嗣子なくして没し、その生前の遺言によって養子に入り日野家を継いだ。
それよりまもなく元服したものと思われ、日野家の慣例に倣って11代将軍・足利義高(義澄)の偏諱を受け日野高光、文亀2年(1502年)7月には義高から改名した義澄より重ねて1字を与えられて日野澄光を名乗ったが、義澄が辞職し前将軍の足利義稙が将軍に復職すると(永正5年(1508年))、後に内光に改名している。義稙の復帰を助けた一人である細川高国は内光の従甥(叔母の孫)で縁戚関係にあり、内光自身もこの頃には義稙寄りで、改名の理由もそのためであったと考えられる。
 大永1年(1521年)には参議、左大弁に任ぜられ、従三位に叙任。大永3年(1523年)には権中納言となり、正三位に叙任。更に大永6年(1526年)には権大納言となり、ここまで順調に昇進を重ねた。大永7年(1527年)の桂川原の戦いで内光は細川高国側(=12代将軍・足利義晴側)に付いて敗北し、敗走する途中で討ち死にした。享年39。
 内光死後の永禄2年(1559年)には左大臣を追贈される。尚、それより前の天文24年(1555年)には跡を継いだ子・晴光やその実子・晴資も早世して内光の系統は断絶しており、広橋家から輝資が養子入りしている。

 徳大寺実淳の次男であった父・内光は嗣子のなかった日野政資の養子となって日野家を継ぎ、初めは11代将軍・足利義高(義澄)の偏諱を受け高光,澄光を名乗っていた。子の晴光も同じように慣例に倣い、義澄の子で12代将軍・足利義晴より偏諱を受けた。
 幕府の重臣で内談衆に任じられていた摂津元造の養女を正室に迎え、代々の日野家当主同様、幕政にも影響力を持った。
 大永7年(1527年)、桂川原の戦いで父・内光は縁戚関係にあった細川高国側について敗北し、敗走する途中で討ち死にする。晴光自身まだ幼少であったが、これを受けて家督を継いだものと思われる。
 天文8年(1539年)2月10日、参議となる。
 天文24年(1555年)9月18日、薨去。享年37。実子・晴資も早世しており、一時日野家は断絶状態となるが、広橋国光の子である輝資によって再興された。