別名は兼保,兼潔。天文24年(1555年)、日野家では晴光が薨去したものの嗣子・晴資は早世してしまっており、跡を継ぐべき子がいなかった。そのため、飛鳥井雅綱の子・資堯を擁する三好長慶と広橋国光の子・兼保を擁する将軍・足利義輝との間で争いが生じた。日野流の柳原資定,広橋兼秀の賛同を得た義輝の意見が通り、永禄2年(1559年)4月23日に正親町天皇の承認によって広橋兼保の日野家相続が決定され、直ちに侍従に任ぜられて日野家当主(嫡子)の慣例どおり将軍家の一字を与えられて日野輝資と改名した。 天正2年3月26日(1574年)、正親町天皇の勅使として、飛鳥井雅清と共に織田信長の下に訪れ、蘭奢待切り取りの勅許の旨を伝えた。天正4年2月1日(1576年)、烏丸光宣,広橋兼勝らと共に山科言継,山科言経に同行し、村井貞勝を訪問した。 慶長7年1月7日(1602年)、近衛家との論争により京都を出奔する。2ヶ月後、徳川家康の取り計らいにより京都に戻る。慶長12年(1607年)5月、輝子の死去をきっかけにして、出家して唯心院と号した。以後、江戸や駿府において家康・秀忠父子に仕えて、近江蒲生郡内において1030石を与えられた。家康側近の僧侶としては金地院崇伝,南光坊天海に次ぐ地位にあったとされている。禁中並公家諸法度の編纂にも加わり、その正本は唯心によると言われている。元和9年(1623年)、秀忠の上洛に従い京都に戻り、薨去した。
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慶長4(1599)年参議、16年権中納言、19年権大納言となる。後水尾天皇譲位に際して、幕府の譴責を受け辞任した中院通村にかわり、父・輝資が武家昵近衆として徳川家康の知遇を受けたことから、寛永7(1630)年武家伝奏となり朝幕間の斡旋に努める。16年まで在職。その日記『資勝卿記』は、10年にわたる武家伝奏在任期の記録も残され,江戸前期の朝幕関係を知る貴重な資料となる。資勝は、また後水尾院の立花会の重要メンバーであり、当時ブームとなった椿栽培においても珍種「日野椿」の栽培で知られる。 |