豊岡家の第8代当主。寛政5年1月5日(1793年2月15日)、叙爵。享和3年12月17日(1804年1月29日)、元服し昇殿を許され、拝賀した。文化4年9月22日(1807年10月23日)、恵仁親王への親王宣下があり、親王の職事となった。文化6年3月24日(1809年5月8日)、立太子と坊官除目があり、春宮少進を兼ねて拝賀した。文化14年3月22日(1817年5月7日)、光格天皇が譲位し恵仁親王(仁孝天皇)が践祚すると、光格上皇の院別当となり、同日拝賀した。 文政2年1月4日(1819年1月29日)、従三位に叙され、公卿に列せられた。文政5年1月1日(1822年1月23日)、元日節会の外弁を務めた。文政6年12月19日(1824年1月19日)、正三位に昇叙し、これが極位となる。 天保11年11月18日(1840年12月11日)に光格上皇が崩御すると、同年12月20日(1841年1月12日)、御服を賜った。翌年1月20日(1841年2月11日)、除服を宣下された。その後も孝明天皇の治世のもと、踏歌節会の外弁,白馬節会の外弁,元日節会の外弁,豊明節会の外弁を務めた。 嘉永7年4月11日(1854年5月7日)、大蔵卿を辞し同日薨去した。享年66。
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