<藤原氏>北家 真夏流

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外山光輔 長沢資親

 山城国京都で勘解由次官・外山光親の2男として誕生。嘉永5年3月12日(1852年4月30日)に元服し昇殿を許され、宮内大輔に任じられた。
 明治3年4月(1870年5月)東京で皇居内番参勤となるが、同年7月に辞任し京都に戻った。その後、国事への参画を願うも実現せず、また、王政復古後の物価の騰貴、政府高官の洋風化などに反発し、愛宕通旭と提携して政権の刷新を画策し同志を募った。明治4年3月6日(1871年4月25日)京都で挙兵の密議を行ったことが発覚し、翌7日に同志21名と共に捕縛され(二卿事件)、同年12月3日に自尽を命ぜられた。

 元禄12年(1699年)閏9月15日、将軍徳川綱吉に御目見する。蔵米300俵を賜り、寄合に所属する。同年11月9日、小姓並に召しだされて、11月28日従五位下侍従・壱岐守に叙任する。後に従四位上にまで昇進し、左少将に任官する。また、蔵米を改めて武蔵入間郡600石を与えられる。宝永4年(1707年)1月9日相模愛甲郡内500石を加えられるなどして、家領は1400石となる。
 宝永6年(1709年)2月11日、高家職に就く。享保14年(1729年)3月28日高家肝煎となる。延享4年(1747年)11月22日と寛延元年(1748年)12月10日の二度にわたって病気を理由に辞職を願うものの、許可されなかった。寛延3年(1750年)5月22日、70歳で死去。

長沢資祐

 享保14年(1729年)9月28日、初めて将軍徳川吉宗に拝謁し、表高家に列する。延享4年(1747年)3月9日より父の務を見習い、同年7月29日従五位下侍従・土佐守に叙任する。寛延元年(1748年)12月10日高家に列し、寛延3年(1750年)、父の死に伴って8月3日に遺跡を継ぐ。
 寛延4年(1751年)7月30日、徳川吉宗の死後の贈官を謝する使いとして京に赴く。宝暦8年(1758年)7月18日、若宮(後の後桃園天皇)の生誕を祝う使いとして京に赴き、9月9日従四位下に昇る。宝暦12年(1762年)、桃園天皇の崩御による法会のため、7月25日に仰せにより京に赴く。明和3年(1766年)将軍徳川家治の元服のため、仰せにより日光山に至る。明和4年(1767年)9月1日肝煎となる。明和5年(1768年)1月15日、英仁親王(後の後桃園天皇)の立太子宣下により松平忠刻に随って京に上り、3月6日に参内し禁裏より正恒の太刀を給い、4月9日従四位上に昇る。
 安永5年(1776年)3月20日死去、享年62。