<藤原氏>北家 真夏流

F319:日野資名  藤原真夏 ― 日野資業 ― 日野実綱 ― 日野有信 ― 日野資長 ― 日野資宣 ― 日野資名 ― 烏丸豊光 F324:烏丸豊光

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烏丸豊光 烏丸資任

 烏丸家の祖。烏丸通沿いに屋敷があったことから、「烏丸」と称する。侍従,蔵人頭,左大弁を歴任後、応永15年(1408年)に31歳で参議に任ぜられ、2年後に従三位に叙せられる。応永18年(1411年)には正三位権中納言となり、左衛門督と検非違使別当を兼ねた。応永19年(1412年)、検非違使別当は辞任するが、応永20年(1413年)に兄の裏松重光が没すると、その後任として後小松上皇の院執権に任ぜられる。実家の裏松家は足利将軍家と縁戚関係で、重光・豊光兄弟の昇進も足利義持による武家執奏によるところが大きかった。応永21年(1414年)に検非違使別当に還補されるが、応永22年(1415年)に検非違使別当、応永24年(1417年)に院執権、応永26年(1419年)に左衛門督をそれぞれ辞任している。
 応永27年(1420年)に正二位に叙せられるが、応永30年(1423年)に足利義持が出家すると、これに従う形で4月25日に出家して祐通と称した。正長2年(1429年)に52歳で死去、寛正2年(1461年)の命日に従一位内大臣への贈位贈官が行われた。

 足利義教の5男で次期将軍を継承する可能性が低かった義政は、幼少時には母方の一族である資任の屋敷(烏丸殿)にて育てられた。
 ところが、嘉吉3年(1443年)、義政が兄の急死で急遽将軍を継ぐことになったため、資任の烏丸殿がそのまま将軍の御所として用いられることになり、長禄3年(1459年)に義政が室町殿に移るまでこの状態が続いた。このため、将軍の育ての親的存在になった資任の発言力が高まることになった。
 文安元年(1444年)に参議、長禄2年(1458年)には従一位・准大臣に任じられた。応仁元年(1467年)に出家し、西誉と号する。応仁の乱を避けて三河国伊良湖御厨に下向し、文明14年(1482年)に同地にて66歳で薨去。
 今参局(御今),有馬持家あるいは有馬元家と共に一時幕政に深く関与し、3人とも「ま」がつくことから「三魔」と呼ばれた。

烏丸光広 六角広賢

 経済的に恵まれた環境のもと、天正9年(1581年)わずか3歳で従五位下に叙された。弁官・蔵人頭を経て、慶長11年(1606年)1月に参議となったが、慶長14年(1609年)7月に起きた猪熊事件(侍従猪熊教利による女官密通事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙り、官を止められて蟄居を命じられた。同16年(1611年)4月に勅免されて還任し、元和2年(1616年)2月、権大納言に進み、同6年(1620年)1月正二位に昇ったが、これ以降官位の昇進は見られず、寛永15年(1638年)7月13日に薨去。享年60。初め西賀茂霊源寺に葬られたが、寛文3年(1663年)7月に洛西太秦の法雲院に移された。伝記に孫・資慶による『烏丸光広卿行状』がある。
 後水尾上皇からの信任厚く、公武間の連絡上重要な人物として事あるごとに江戸に下り、公卿の中でも特に幕府側に好意を寄せていた。また、自由闊達な性格で逸話にも富み、多才多芸な宮廷文化人として、和歌や書・茶道を得意とした。とりわけ歌道は慶長8年(1603年)、細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、将軍・徳川家光の歌道指南役をも勤めている。書については、大変ユニークではあったが、寛永の三筆に決して劣らず、光広流と称される。本阿弥光悦や俵屋宗達など江戸の文化人と交流があり、また、清原宣賢に儒学を学び、沢庵宗彭,一糸文守に帰依して禅をも修めた。
 歌集に『黄葉和歌集』、著書に『耳底記』,『あづまの道の記』,『日光山紀行』,『春のあけぼのの記』、仮名草子に『目覚草』などがある。また、俵屋宗達筆による『細道屏風』に画賛を記しているが、この他にも宗達作品への賛をしばしば書いている。公卿で宗達絵に賛をしている人は珍しい。書作品として著名なものに、『東行記』などがある。

 はじめは「桃園」の家名であったという。また、「六角」の家名は後世のもので広賢時代には「六角院」を号していたという説がある。正保4年(1647年)輪王寺門跡になった後水尾天皇の皇子・守澄法親王の関東下向にともなって江戸に下る。徳川和子の意向によるものだったという。万治元年(1658年)12月9日卒去、享年不詳。
六角広治 六角広胖

 江戸時代の高家旗本。父広賢の死後、母方の祖父・本庄道芳に養育される。延宝3年(1675年)7月28日、守澄法親王の推挙により将軍・徳川家綱に御目見する。翌年5月10日、小姓組に加えられて蔵米200俵を与えられる。元禄2年(1689年)閏1月26日、高家職に就き下野足利郡内で1000石を与えられる。同年2月28日、従五位下侍従・越前守に叙任する。
 元禄9年(1696年)7月10日、不行跡により高家を解任の上、逼塞を命じられる。さらに元禄10年(1697年)4月23日、蟄居隠居を命じられる。彼について、遊郭吉原で喧嘩騒ぎがあった際、直接関係していないものの出入り差し止め(騒動の拡大・犯人逃走などを防ぐため、吉原の入り口の門を閉じ区画を完全閉鎖すること)に遭遇し、同所に閉じ込められてしまったため、時の将軍に近い親族、または高家旗本として武家にあるまじき失態を晒してしまった、などという話を確認できる。宝永6年(1709年)10月25日、蟄居を解かれる。享保4年(1719年)5月3日、66歳で死去。

 江戸時代の高家旗本。播磨龍野藩主脇坂安親の6男。初名は脇坂安徴。高家旗本・六角広孝は、養嗣子広寿及びその子広教を相次いで亡くした。そのため、脇坂安徴を養子に迎えた。
 寛政8年(1796年)9月15日、将軍・徳川家斉に御目見する。同年11月2日、高家見習に召し出されて、11月28日、従五位下侍従・主殿頭に叙任する。文化7年(1810年)12月29日、高家を解任されて差控えを命じられる。深川法禅寺による四天王寺五重塔再建勧化の手続きに関する処理に問題のあったとされる。なお、この処罰により、嫡子の地位を辞退し、息子・広体が六角家を相続した。