F318:日野資宣 | 藤原真夏 ― 日野資業 ― 日野実綱 ― 日野有信 ― 日野資長 ― 日野資宣 ― 日野資名 | F319:日野資名 |
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日野資名 | 日野名子 |
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永仁4年(1296年)、左兵衛佐に任官すると、正和4年(1315年)には参議に昇り、文保元年(1317年)に権中納言に昇進して、元徳2年(1330年)には正二位となった。 |
光厳天皇典侍。名は「資子」とも。通称は「竹むき」。日記『竹むきが記』の筆者として知られる。 |
日野宣子 | 裏松資康 |
後光厳天皇の典侍。南北朝期の宮中(北朝)で大きな影響力を保持し、日野業子と足利義満や、広橋仲子と後光厳天皇、三条厳子と後円融天皇らの縁談を取り計らった。二位局・二品尼・一品禅尼・岡松一品などと称された。 |
「裏松」を家号として裏松資康と称した。室町幕府5代将軍・足利義量は外孫にあたる。
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日野康子 | 日野栄子 |
室町幕府3代将軍・足利義満の室。院号は北山院。後小松天皇の准母。南御所と称された。 |
室町幕府第4代将軍・足利義持の正室。同第5代将軍・足利義量の生母にあたる。 |
日野業子 | 日野資子 |
室町幕府3代将軍・足利義満の御台所である。位階は従一位。准后。 |
応永7年(1400年)、伯父の権大納言・日野資教の養女として後小松天皇の後宮に入り、応永8年(1401年)3月29日に躬仁親王(のち実仁、称光天皇)、応永11年(1404年)小川宮、応永15年(1408年)理永女王をもうける。応永19年(1412年)、実仁親王が即位。応永24年(1417年)1月、従二位。翌25年(1418年)、御所の女官の新内侍の懐妊騒動の中で、資子がかつて松木宗量と関係していたことが発覚し、宗量は処罰されたという。 |
大津山家稜 | |
8代・家稜のとき、秀吉の九州征伐に遭遇した。家稜は秀吉がやって来たとき城を開いて筑後境に出迎え、本領を安堵された。そのとき、秀吉は本来ならば国々の小領主は承認しないのが建前だが、わざわざ出迎えて先導をつとめるのは感心だから、城の周囲50町の所領を認めてやろうと言ったという。 |