<藤原氏>北家 真夏流

F318:日野資宣  藤原真夏 ― 日野資業 ― 日野実綱 ― 日野有信 ― 日野資長 ― 日野資宣 ― 日野資名 F319:日野資名


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日野資名 日野名子

 永仁4年(1296年)、左兵衛佐に任官すると、正和4年(1315年)には参議に昇り、文保元年(1317年)に権中納言に昇進して、元徳2年(1330年)には正二位となった。
 元弘元年(1331年)に鎌倉幕府が大覚寺統の後醍醐天皇を廃して持明院統の光厳天皇を擁立した際には後醍醐天皇からの三種の神器の伝授に関与した。以後は光厳天皇の寵愛を受けて同年に按察使、翌年には権大納言に任命される。
 正慶2年/元弘3年(1333年)、足利尊氏の寝返りによって六波羅探題が陥落した際、六波羅探題北方の北条仲時らと共に光厳天皇,後伏見上皇,花園上皇を奉じて京都から脱出する。しかし、逃走中に佐々木導誉が差し向けたとも言われる野伏に阻まれて近江国番場宿にある蓮華寺で仲時らは自刃、資名はそこで出家した。
 建武2年(1335年)、足利尊氏が今度は後醍醐天皇から離反して独立すると後醍醐天皇から朝敵とされてしまった。尊氏は後醍醐天皇に対抗する持明院統の天皇を擁立し、後醍醐天皇側の新田義貞などを逆に朝敵にせんと考え、光厳上皇の側近である資名に接近した。資名は尊氏の意を受けて光厳上皇の院宣を弟の三宝院賢俊と図って貰い受けるや、すぐに尊氏が滞在していた備後国鞆津に賢俊を遣わし、院宣を手渡させた。
 暦応3年(1338年)、薨去。享年53。 

 光厳天皇典侍。名は「資子」とも。通称は「竹むき」。日記『竹むきが記』の筆者として知られる。
 日野資名を父に生まれ、母は正室の日野頼宣女と推察される。はじめ後伏見院に女房として仕えた。元弘元年(1331年)、光厳天皇踐祚の折に典侍に任じられ、同2年(1332年)に光厳天皇即位の褰帳典侍を務め、従三位に叙せられる。
 翌年、西園寺公宗と結婚する。建武2年(1335年)、夫が建武政権へ謀反を企てたという廉により刑死したが、この事件とその前後のことは日記『竹むきが記』には記録されていない。その後、長男の西園寺実俊を出産する。暦応3年(1340年)北山第に移住した。その後、名子は石山,賀茂社,石清水,春日社,初瀬などに参拝し、それらを『竹むきが記』に記した。
 貞和3年(1347年)、年来の宿願であった十一面観音の像を造立、三身堂(西園寺内持仏堂)において供養をする。延文3年(1358年)2月23日没。
 『竹むきが記』は、元徳元年(1329年)12月28日の春宮元服の記述から起筆され、貞和5年(1349年)光厳院・後光厳院の北山第御幸、同年の花見の記事までが書かれ、最後に全篇の跋歌二首が置かれている。内容は宮廷行事の記録、物詣や仏事、夫とのやりとり、子の生育記録などである。

日野宣子 裏松資康

 後光厳天皇の典侍。南北朝期の宮中(北朝)で大きな影響力を保持し、日野業子と足利義満や、広橋仲子と後光厳天皇、三条厳子と後円融天皇らの縁談を取り計らった。二位局・二品尼・一品禅尼・岡松一品などと称された。
 後光厳天皇の践祚時に典侍となり、後光厳の即位礼では褰帳の典侍を務めた。やがて従三位に叙せられる。宣子と後光厳は芝禅尼のもとで育てられた縁があり、後光厳との配偶関係は無かったが、宣子は後光厳の後宮で力を持った。以後、宣子は女官の監督者として北朝の後宮に君臨することとなる。
 その後、西園寺実俊の妾となり、実俊の北山殿に入った。宣子の影響で実俊は後光厳に気に入られ、宣子は後光厳の六位蔵人である物加波懐国とも関係を持ったが、懐国は宣子の威を借りて高慢に振る舞ったという。
 後光厳の譲位後は「二位局」と呼ばれ、後光厳の崩御に際して出家。法名は無相定円。後円融天皇の後宮でも力を保ち、一門の女性を後見して後宮に送り込んだ。永徳元年(1381年)3月16日に従一位に叙せられる。永徳2年(1382年)前後には、後円融天皇が義満に対して行った幹仁親王(後小松天皇)への譲位の相談にて使者を務めている。永徳2年(1382年)6月14日に薨去。
 宣子は、将軍・足利義満と一族の日野業子の縁談を取り持った縁で、義満との関係も強かった。義満は宣子に対して実母同然の敬愛を払い、たびたび花の御所内にある宣子の岡松殿(宣子の没後に大聖寺となる)を訪れた。宣子の死に際しては、義満自ら葬儀を営み、年忌ごとの手厚い供養も忘れずに執り行ったという。義満の治天の君同然の振る舞いに関して、宣子を通じて義満は歴代の治天の君の行状を知ったと推測している。 

 「裏松」を家号として裏松資康と称した。室町幕府5代将軍・足利義量は外孫にあたる。
 永和4年/天授4年(1378年)3月、正四位上左大弁兼蔵人頭(頭弁)から左大弁兼参議に進み、同年12月13日に従三位・権中納言に任ぜられる。2年後に按察使を兼任。永徳元年/弘和元年(1381年)に正三位を経て従二位に叙され、翌永徳2年/弘和2年(1382年)には後円融院の院執権になる。永徳3年/弘和3年(1383年)には按察使を辞して代わって左衛門督,検非違使別当を兼ねる。
 至徳元年/元中元年(1384年)に正二位に叙される。至徳3年/元中3年(1386年)1月にに院執権を辞し、同年11月に権大納言に任ぜられる。嘉慶2年/元中5年(1388年)に一旦権大納言を辞しているが、明徳元年/元中7年(1390年)に再任される。8月に病が重く、同月9日に従一位に叙されるが、翌10日に死去した。
 妹・業子と娘・康子が3代将軍・足利義満の御台所となったことが急激な昇進につながり、同じく娘・栄子も資康の没後に4代将軍・足利義持の御台所となり、5代将軍・足利義量を生んでいる。日野家の家督は弟・資教が継ぎ、資康は裏松家を名乗ったが、文安5年(1448年)に玄孫・裏松勝光(8代将軍・足利義政御台所日野富子の兄)が断絶した宗家を継承して子孫は日野家を家名としたことから、後世においては資康以降の裏松家の人々も「日野」と呼ばれることになる。

 

日野康子 日野栄子

 室町幕府3代将軍・足利義満の室。院号は北山院。後小松天皇の准母。南御所と称された。
 応永元年(1394年)頃に日野業子(康子の叔母)に先立たれた足利義満の後室となり、北山第南御所に住したことから南御所と称された。応永13年(1406年)後円融天皇の皇后で後小松天皇の生母である通陽門院藤原(三条)厳子の崩後、義満は天皇一代で諒闇(天皇の服喪)が2度あるのは不吉であるという理由から、関白一条経嗣と通じて室である康子を天皇の准母とし、翌応永14年(1407年)に准三后・従一位に叙任され、院号宣下を受けて北山院と称された。1408年に義満が没した後、後を継いだ義持は実妹の夫であったが疎遠であったらしく(『兼宣公記』応永24年正月10日条によれば、康子の兄弟であった僧侶の処遇を巡って康子と義持が衝突した後に不仲になったという)、義持による義満の朝廷政策の否定の影響もあって康子の葬儀は国母に準じた儀ではなかった。康子の死後わずか1ヶ月で御所としていた北山第は解体され、所領も後小松天皇に返還された。

 室町幕府第4代将軍・足利義持の正室。同第5代将軍・足利義量の生母にあたる。
 権大納言・日野資康の娘で、大納言・日野重光の妹にあたる。他に兄に烏丸豊光、姉に第3代将軍・足利義満の正室となった日野康子、叔母に日野業子がいる。足利義持の正室として嫁ぎ、応永14年7月24日(1407年8月27日)に義量を生んだ。
 義持との夫婦仲は良好で、義持が奈良や伊勢参詣に赴く際には同伴している。栄子も神仏への信仰心が深く、伊勢神宮や熊野詣に何度も出かけた。義持と同じ趣味である田楽を好んだ。
 義持の晩年には大方殿と呼ばれた。応永32年2月27日(1425年3月17日)に義量が19歳で早世し、義持も応永35年1月18日(1428年2月3日)に43歳で死去すると、1月19日に常徳院海門和尚を戒師として落髪し、慈受院と号した。同日に宣下があり、従一位に叙された。6月に第6代将軍・足利義教の婚儀があり、その正室には重光の娘・日野宗子に決定するが、宗子は「不受の気色(不同意、同意しない)」を示したという。このため栄子が宗子を説得して嫁がせたと伝わる。
 永享3年(1431年)7月27日に死去。享年42。
 義持との間には義量以外にも2人ずつ男女(男子の名は不明、女子は大聖寺慈敬、喝食御所)がいたようだが、男子は早世し、女子はどうなったかは不明である。 

日野業子 日野資子

 室町幕府3代将軍・足利義満の御台所である。位階は従一位。准后。
 宮中に影響力を持っていた叔母の日野宣子(岡松一品)が仲介し、1375年に足利義満と結婚する。義満が京都に花の御所を造営し、共に移る。業子は和歌に秀でていたことから義満の寵愛を受けたといわれ、義満の計らいで従一位・准后となった。二人の間に成長した子はいない。ただし、『系図纂要』には仁和寺門跡法尊を業子所生とする記述がある。1405年に55歳で死去。
 業子と義満の婚礼により、持明院統の公家だった日野家は朝幕政界に影響力を強める。義満はその後、姪に当たる日野康子と再婚し、康子が正室の座を引き継ぐ。

 応永7年(1400年)、伯父の権大納言・日野資教の養女として後小松天皇の後宮に入り、応永8年(1401年)3月29日に躬仁親王(のち実仁、称光天皇)、応永11年(1404年)小川宮、応永15年(1408年)理永女王をもうける。応永19年(1412年)、実仁親王が即位。応永24年(1417年)1月、従二位。翌25年(1418年)、御所の女官の新内侍の懐妊騒動の中で、資子がかつて松木宗量と関係していたことが発覚し、宗量は処罰されたという。
 応永32年(1425年)7月29日、准三宮、女院となり、光範門院と号した。正長元年(1428年)、称光天皇が嗣子なくして崩御、後花園天皇の即位により皇統は伏見宮の系統に移った。永享5年(1433年)後小松天皇が崩御し、出家。永享12年(1440年)9月8日、57歳で薨去。

大津山家稜

 8代・家稜のとき、秀吉の九州征伐に遭遇した。家稜は秀吉がやって来たとき城を開いて筑後境に出迎え、本領を安堵された。そのとき、秀吉は本来ならば国々の小領主は承認しないのが建前だが、わざわざ出迎えて先導をつとめるのは感心だから、城の周囲50町の所領を認めてやろうと言ったという。
 ところが佐々成政が肥後の領主となると、大津山氏の土地を取上げて国外に退去させた。このような成政の姿勢に肥後の国人らが反発し、大津山氏は同志を語らって一揆を起し成政に反抗することとなった。このとき北肥後の山中の武士たちは、多くが大津山氏に一味して大いに成政を苦しめた。事態収拾に苦慮した成政は、大津山氏に和議に応ずるなら三千石を与えようという謀略をもって、大津山氏を誘った。これを信じた家稜は城を出て成政のもとを訪れたが、その場で殺害され、大津山氏は呆気無く没落してしまった。
 しかし、成政も国人一揆蜂起の責任を追求され、結局、切腹して滅亡した。そのあとには、加藤清正と小西行長が肥後に入国し、肥後の戦国時代も終わりをつげた。大津山氏の子孫は、柳川立花氏に仕えたと伝えられている。