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日野俊光 | 日野資朝 |
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伏見天皇の近臣であり、後伏見天皇,花園天皇,光明天皇の乳父である。大覚寺統の信任も厚く、後宇多院の院司もつとめた。正中2年(1325年)から2年間、勅使として鎌倉に下り、皇位継承問題をめぐり幕府との折衝に当たったが、翌年の嘉暦元年(1326年)5月15日、任半ばにして関東で没した。 |
正和3年(1314年)従五位下に叙爵し、持明院統の花園天皇の蔵人となる。文保2年(1318年)の後醍醐天皇即位後も院司として引き続き花園院に仕えていたが、元亨元年(1321年)に後宇多院に代わり親政を始めた後醍醐天皇に重用されて側近に加えられた。このことで父・俊光が資朝を非難して義絶したという。 |
日野邦光 | 賢俊 |
南朝に仕え、幼名を阿新丸といい、『太平記』巻2「阿新殿事」に見える敵討ちの逸話によって古来著名である。 |
醍醐寺宝池院流賢助に師事して密教を学ぶ。元応2年12月4日、今熊野において入壇(正式な受戒)の儀式が行われた。元弘の変の最中の元弘元年9月4日、東宮量仁親王(光厳天皇)ら持明院統の皇族が退避していた六波羅探題の北条仲時邸において尊円法親王,賢助らによって五壇法が行われた際、賢助の補佐として「賢俊権大僧都」の名が見られる。2年後、師・賢助の死に際してその後継者に指名された。 |