<藤原氏>北家 真夏流

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日野俊光 日野資朝

 伏見天皇の近臣であり、後伏見天皇,花園天皇,光明天皇の乳父である。大覚寺統の信任も厚く、後宇多院の院司もつとめた。正中2年(1325年)から2年間、勅使として鎌倉に下り、皇位継承問題をめぐり幕府との折衝に当たったが、翌年の嘉暦元年(1326年)5月15日、任半ばにして関東で没した。
 各方面の歌合にも度々参加し、嘉元百首・文保百首の作者に列なる。新後撰集初出。勅撰入集計33首。家集『俊光集』がある。

 正和3年(1314年)従五位下に叙爵し、持明院統の花園天皇の蔵人となる。文保2年(1318年)の後醍醐天皇即位後も院司として引き続き花園院に仕えていたが、元亨元年(1321年)に後宇多院に代わり親政を始めた後醍醐天皇に重用されて側近に加えられた。このことで父・俊光が資朝を非難して義絶したという。
 後醍醐天皇とともに宋学(朱子学)を学び、討幕計画では中枢に参画した。正中元年(1324年)、鎌倉幕府の朝廷監視機関である六波羅探題に倒幕計画が察知され、日野俊基らとともに捕縛されて鎌倉へ送られ、佐渡島へ流罪となる(正中の変)。元弘元年(1331年)に天皇老臣の吉田定房の密告で再び討幕計画が露見した元弘の乱が起こると、翌元弘2年/正慶元年(1332年)に佐渡で処刑された。
 斎祀神社に佐渡市吉岡鎮座の大膳神社、佐渡市真野鎮座の真野宮、奈良県吉野町鎮座の吉野神宮がある。
 なお、兄の資名は京都を追われた光厳天皇を最後まで守護した忠臣、弟の賢俊は光厳上皇の院宣を足利尊氏に届けるなど持明院統のために尽くしたことで知られ、兄弟で敵味方で分かれている。
 資朝が後醍醐天皇に登用される話は、吉田兼好の『徒然草』に記されている。また『太平記』には資朝の子の阿新丸が敵討ちを遂げる逸話もある。

日野邦光 賢俊

 南朝に仕え、幼名を阿新丸といい、『太平記』巻2「阿新殿事」に見える敵討ちの逸話によって古来著名である。
 元亨4年(1324年)後醍醐天皇の倒幕計画に参画した父・資朝が北条氏に捕らわれ、佐渡に配流された(正中の変)。その直後から一家は仁和寺の近辺に隠棲していたが、元弘2年/正慶2年(1332年)13歳の阿新丸は母の反対を押し切って佐渡に渡り、父との面会を求めたものの叶えられず、既に守護代・本間入道によって謀殺されたことを知ると敵討を決意する。夜間嵐に乗じて父の仇本間を襲い、入道は獲られなかったが、斬手の本間三郎を刺し殺した。その後、山伏に助けられて本間の追手をやり過ごし、商人船に乗って佐渡から脱出したという。
 建武新政下では後醍醐に仕え、延元元年/建武3年(1336年)3月に派遣された石清水臨時祭舞人の中に「左兵衛権佐邦光」と見える。延元4年/暦応2年(1339年)石見国司として新田義氏と共に同国へ下向。翌興国元年/暦応3年(1340年)8月、豊田城で守護・上野頼兼率いる北軍を一旦退けたが、10月その反撃に遭って敗れ、次いで稲積城に立てこもったものの、興国2年/暦応4年(1341年)2月再び頼兼に攻められて落城した。その後は石見を去って左兵衛督に転じ、正平5年/観応元年(1350年)10月、宇治惟時の帰参を促すべく、勅使として肥後へ下向。正平9年/文和3年(1354年)6月までに権中納言に任じられる。正平16年/康安元年(1361年)12月、四条隆俊,細川清氏らと京都に乱入し、将軍・足利義詮を近江へ一時駆逐した。以降は史料上の所見がなく、『南朝公卿補任』には正平18年(1363年)薨去とするが確証はない。

 醍醐寺宝池院流賢助に師事して密教を学ぶ。元応2年12月4日、今熊野において入壇(正式な受戒)の儀式が行われた。元弘の変の最中の元弘元年9月4日、東宮量仁親王(光厳天皇)ら持明院統の皇族が退避していた六波羅探題の北条仲時邸において尊円法親王,賢助らによって五壇法が行われた際、賢助の補佐として「賢俊権大僧都」の名が見られる。2年後、師・賢助の死に際してその後継者に指名された。
 南北朝時代の内乱では足利尊氏方につき、後醍醐天皇の信任を受け権勢を誇っていた文観を排除し、建武3年/延元元年(1336年)、権大僧正に任じられて醍醐寺座主,根来寺座主となる。同年2月、尊氏が九州に奔った際にはそれに従い、陣中の群議にあたった。また持明院統(北朝)の光厳上皇の院宣と錦旗を尊氏に伝える役割を果たし、室町時代の足利将軍家と日野家の関係の端緒となる。
 尊氏の護持僧として権勢をふるい、醍醐寺に食邑として6万石を寄進されて伽藍を整備し、さらに京都に新三宝院を造営・寄進されてその院主となった。暦応3年/興国元年(1340年)に東寺長者、康永元年/興国3年(1342年)法務大僧正に就任。観応元年/正平5年(1350年)、東寺長者の職を辞して尊氏の九州鎮定にしたがっている。
『三宝院賢俊像』は醍醐寺所蔵、また『三宝院賢俊僧正日記』がある。