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日野資長 | 日野兼光 |
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日野家12代当主。日野民部卿と称す。 |
保元元年(1156年)に勧学院学問料を支給されていることから、大学寮で紀伝道を学んでいたことが知られる。2年後に文章得業生となり、永暦元年(1160年)に対策に及第して従五位下・修理亮兼右近衛少尉に叙任され、使宣旨を賜った。 |
日野資実 | 日野家宣 |
家実を改名。三事兼帯,蔵人頭,参議,左大弁を経て、元久1(1204)年権中納言、承元4(1210)年正二位。建暦1(1211)年、大宰権帥となり、承久2(1220)年出家。法名知寂。日野後帥と号される。九条家の家司でもある。文章博士,土御門・順徳両天皇の侍読を勤めた日野流儒家で和漢の学に秀で故実に明るい。論議,申詞,申請などに功績があり、詩文関係の活躍は「元久詩歌合」作者、承元2年高陽院文殿作文題者、建保1(1213)年「内裏詩歌合」作者、同2年内裏和歌御会序者、同4年中殿御作文題者など。『資実長兼両卿百番詩合』『和漢兼作集』に作品が載り,『願文集』に建暦1年および建保3年の後鳥羽院の仏事に関する願文が載る。 |
早くから大学に入り、建久9年(1198年)学問料を下給され、正治3年(1201年)には文章得業生に補任された。建仁2年(1202年)但馬少掾に初任。 |
日野家光 | 日野光国 |
元久2年(1205年)文章生になり、承元3年(1209年)に秀才となる。承元4年(1210年)越中大掾に初任。承元5年(1211年)には右衛門尉に任ぜられる。六位蔵人を経て建暦3年(1213年)従五位下・宮内権大輔に叙任され、昇殿を許された。建保3年(1215年)に従五位上に叙され、建保5年(1217年)に大隅守を兼任。承久3年(1221年)右少弁に任ぜられ、貞応元年12月(1223年1月)に従四位下・権右中弁に叙任される。嘉禄元年(1225年)蔵人頭に補され、同年中に参議に任ぜられ公卿に列し、左大弁を兼ねた。 |
貞応3年(1224年)に勧学院学問料を賜っており、嘉禄元年(1225年)には文章得業生となる。 |