<藤原氏>北家 真夏流

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日野資長 日野兼光

 日野家12代当主。日野民部卿と称す。
 保延元年(1135年)秀才、保延3年(1137年)には対策に及第する。保延4年(1138年)従五位下に叙爵。久安6年(1150年)右少弁に任ぜられた後、中弁,大弁と昇進。久寿2年(1155年)後白河天皇に五位蔵人、永暦元年(1160年)二条天皇に蔵人頭として仕える。同年参議に任ぜられて公卿に列した。
 永万元年(1165年)従三位・権中納言に叙任される。治承3年(1179年)辞して、正二位・民部卿に叙任される。治承5年(1181年)長年の希望であった出家をする。法名は如寂。九条兼実からは末代の幸人と評されている。
 建久6年(1195年)10月26日薨去。享年77。『高野山往生伝』,『資長卿記』などがある。また、『続古今和歌集』に和歌、『拾玉集』には漢詩がある。

 保元元年(1156年)に勧学院学問料を支給されていることから、大学寮で紀伝道を学んでいたことが知られる。2年後に文章得業生となり、永暦元年(1160年)に対策に及第して従五位下・修理亮兼右近衛少尉に叙任され、使宣旨を賜った。
 応保3年(1163年)に治部少輔に任じられ、翌年に昇殿を許された。仁安元年(1166年)に治部少輔のまま従五位上・東宮学士に叙任される。翌年正五位下に叙され、仁安3年(1168年)には蔵人兼備中権介に転任し東宮学士を辞した。
 嘉応元年(1170年)に右少弁に任ぜられると、以降は弁官で昇進していき、承安2年(1172年)に左少弁、治承3年(1179年)には右中弁に勧学院弁別当を兼ね、更に造東大寺長官を兼ねて従四位下に昇叙。養和元年(1181年)には左中弁に進み、造興福寺長官となる。寿永元年(1182年)に正四位下に昇り、翌年には安徳天皇の蔵人頭に任命されるが、同天皇の西下には従わずに引き続き、後鳥羽天皇の蔵人頭を務め、続いて参議兼右大弁として公卿に列す。
 元暦元年(1184年)には従三位・左大弁に叙任され近江権守を兼ねた。公卿昇任が間近と言われていた院近臣の四条隆房よりも先に公卿に列したことから、義母で後白河法皇の寵愛を受けた高階栄子(丹後局)の後ろ盾があったとされた。文治元年(1185年)に勘解由長官、翌年に権中納言に任じられる。建久元年(1190年)に右兵衛督を、建久2年(1191年)には検非違使別当を兼務、建久4年(1193年)には右衛門督に転じて、京都の治安回復に尽力した。建久5年(1194年)に右衛門督・検非違使別当を辞任、翌年に従二位に叙される。
 建久7年(1196年)に腫物の病のため4月12日に出家(法名は玄寂)するが、間もなく死去した。

日野資実 日野家宣

 家実を改名。三事兼帯,蔵人頭,参議,左大弁を経て、元久1(1204)年権中納言、承元4(1210)年正二位。建暦1(1211)年、大宰権帥となり、承久2(1220)年出家。法名知寂。日野後帥と号される。九条家の家司でもある。文章博士,土御門・順徳両天皇の侍読を勤めた日野流儒家で和漢の学に秀で故実に明るい。論議,申詞,申請などに功績があり、詩文関係の活躍は「元久詩歌合」作者、承元2年高陽院文殿作文題者、建保1(1213)年「内裏詩歌合」作者、同2年内裏和歌御会序者、同4年中殿御作文題者など。『資実長兼両卿百番詩合』『和漢兼作集』に作品が載り,『願文集』に建暦1年および建保3年の後鳥羽院の仏事に関する願文が載る。
 和歌の詠出は建久6(1195)年「民部卿家歌合」、同9年大嘗会屏風和歌、正治2(1200)年「石清水若宮歌合」など。『新古今集』以下の勅撰集に9首入集。日記『都玉記』。『六代勝事記』の作者とする説がある。  

 早くから大学に入り、建久9年(1198年)学問料を下給され、正治3年(1201年)には文章得業生に補任された。建仁2年(1202年)但馬少掾に初任。
 建仁3年(1203年)、六位蔵人に補任の後ほどなく従五位下・右衛門尉に叙任される。摂政・近衛家実の家司を務め、元久元年(1204年)には従五位上・兵部権大輔に叙任され、建永2年(1207年)武蔵権介に任ず。承元4年(1210年)には正五位下に進んだ。
 承元5年(1211年)五位蔵人に補任され、右少弁に転じる。同年左少弁に転じた後、建暦3年(1213年)正五位上に叙される。権右中弁を経て、建保3年(1215年)従四位下。建保7年(1217年)には正四位下・左中弁に叙任され、承久2年(1220年)左大弁に転じる。 
 承久3年(1221年)に従三位に叙され公卿に列し、長門権守を兼任。勧学院別当を務め、同年中に参議に任ぜられるが、翌貞応元年(1222年)10月27日出家し、同日薨去。享年38。 

日野家光 日野光国

 元久2年(1205年)文章生になり、承元3年(1209年)に秀才となる。承元4年(1210年)越中大掾に初任。承元5年(1211年)には右衛門尉に任ぜられる。六位蔵人を経て建暦3年(1213年)従五位下・宮内権大輔に叙任され、昇殿を許された。建保3年(1215年)に従五位上に叙され、建保5年(1217年)に大隅守を兼任。承久3年(1221年)右少弁に任ぜられ、貞応元年12月(1223年1月)に従四位下・権右中弁に叙任される。嘉禄元年(1225年)蔵人頭に補され、同年中に参議に任ぜられ公卿に列し、左大弁を兼ねた。
 嘉禄2年(1226年)従三位・周防権守となる。寛喜3年(1231年)に正三位・権中納言に叙任されるが、病に依り文暦2年(1235年)に辞任した。嘉禎2年(1236年)に従二位に叙されるが、出家して嘉禎2年12月14日(1237年1月12日)薨去。享年38。 

 貞応3年(1224年)に勧学院学問料を賜っており、嘉禄元年(1225年)には文章得業生となる。
 嘉禄2年(1226年)に因幡権守に初任。右衛門尉,佐渡守を経て、嘉禄3年(1227年)従五位下に叙爵。寛喜2年(1230年)には藤原竴子の中宮権大進に任ぜられる。権大進として、寛喜3年(1231年)の中宮入内や、中宮御所の辺りで火災が発生した際などでの中宮への伺候が見える。寛喜4年(1232年)には従五位上に陞叙して昇殿を許された。貞永2年(1233年)に権大進を止み、嘉禎3年(1237年)に正五位下に進む。
 美作守,春宮権大進,五位蔵人を歴任し、寛元4年(1246年)に民部大輔に任ぜられる。その後、権左少弁,右中弁など弁官を務めている。宝治2年(1248年)後嵯峨上皇及び中宮西園寺姞子が法勝寺修正に臨幸した際に参仕。さらには建長2年(1250年)10月に天皇が鳥羽殿に行幸した際には殿上人として参仕している。建長7年(1255年)に従四位上、建長8年(1256年)に正四位下に進み、正嘉元年(1257年)には左中弁に転じ、勧学院別当に補された。
 東宮学士,左宮城使を経て弘長元年(1261年)に左大弁に転じた。蔵人頭・大蔵卿を歴任し、文永元年(1264年)に従三位に叙され公卿に列した。文永2年(1265年)には越後権守を兼任。
 文永7年(1270年)10月13日薨去。享年65。