<藤原氏>北家 真夏流

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広橋頼資 勘解由小路経光

 民部卿・藤原光範の後を継いだとされる。広橋家の祖。四辻,勘解由小路とも称する。
 儒学に明るく、近衛家に近い立場を取った。元仁元年12月17日(1225年1月27日)に参議に任ぜられ、翌年に権中納言に昇る。嘉禎元年11月7日(1235年12月18日)に出家して翌年に薨去した。熊野信仰に厚く、承元4年(1210年),建保4年(1216年),寛喜元年(1229年)の参詣などは日記『頼資卿記』に詳細に残されているほか、公私合わせて20回以上の熊野参詣が知られている。

 

 「広橋経光」は室町期の家名を過去遡及的に適用したもので、同時代には勘解由小路 経光と称した。官位は正二位・民部卿,権中納言。日記『民経記』の著者である。
『公卿補任』,『尊卑分脈』によれば、建保6年(1218年)11月16日、春宮蔵人に補される。承久4年(1222年)1月6日、文章得業生となる。嘉禄2年(1226年)7月7日、昇殿を許される。嘉禎2年(1236年)2月30日、父・頼資が薨去し喪に服す。5月6日に復任し、12月19日には左少弁に任ぜられる。嘉禎4年(1238年)閏4月6日、造東大寺長官に補され、同月20日には左中弁に転任。同月29日には卒分等勾当となす。5月23日には左宮城使となす。7月20日には右大弁に転任。造東大寺長官と左宮城使は兼任。 
 仁治2年(1241年)2月1日、参議に任ぜられ、同日中に左大弁に転任。また同月8日には勘解由長官を兼ねる。寛仁2年(1244年)1月5日、正三位に昇叙。宝治元年(1247年)12月8日、権中納言に任ぜられる。宝治2年(1248年)10月29日、権中納言を辞し従二位に昇叙。建長7年(1255年)1月5日、正二位に昇叙。
 文応元年(1260年)9月8日、民部卿に任ぜられる。文永11年(1274年)4月15日、正二位民部卿に在任のまま薨去。
 経光が残した日記『民経記』は鎌倉時代の重要資料として知られている。経光15歳の時からの自筆原本が残っていることでも知られる。

広橋兼仲 広橋光業

 日記『勘仲記』の著者。建長4年(1252年)に元服、正嘉2年(1257年)に叙爵し、紀伝道(文章道)を学ぶ。正元元年(1259年)に民部少輔に任じられ、近衛家,鷹司家の家司となり、弘安元年(1278年)より鷹司兼平,近衛家基の執事を務めた。
 弘安3年(1280年)に兄兼頼が蔵人頭右大弁在任中に没すると嫡子として扱われ、弘安7年(1284年)に蔵人に任ぜられ、同10年に右少弁、正応元年(1288年)に左少弁、翌年には右中弁,左中弁に、その翌年には右大弁,左大弁に任じられ、春宮亮も兼任、正応4年(1292年)には蔵人頭に任じられた。
 この間に左右宮城使や造興福寺長官(興福寺造寺司)や亀山上皇院司も兼ねている。正応5年(1292年)に日野資宣の死により日野長者と任じられ、同年11月5日に蔵人頭から参議に任ぜられ、翌永仁元年(1293年)には従三位に叙せられて権中納言となる。
 永仁2年(1294年)に権中納言を辞任するが正三位に叙され、正安元年(1299年)には従二位に叙せられた。嘉元3年(1305年)に日野長者を日野俊光に譲り、徳治3年(1308年)に出家して間もなく病死した。
 日記『兼仲記』を残した。日記は不要となった紙の裏を再利用したもの(紙背文書)である。日記そのものからではないが、紙裏からは康和地震(1099年)における土佐国の津波被害の状況が見出されている。 

 永仁2年(1294年)5月8日、勧学院学問料を賜う。永仁3年(1295年)9月28日、文章生。永仁5年(1297年)2月23日、叙爵。正和2年(1313年)9月6日、治部大輔に任ぜられ、同日蔵人に補せられる。元応元年(1319年)3月9日、左中弁に任ぜられる。4月5日、卒分所勾当,装束使,左宮城使となる。元応2年(1320年)9月5日、参議に任ぜられる。元亨元年(1321年)3月11日、参議を辞した。元徳2年(1330年)3月22日、正三位に昇叙。康永2年(1343年)1月5日、従二位に昇叙。貞和2年(1346年)12月5日、権中納言に任ぜられる。貞和4年(1348年)2月11日、権中納言を辞した。
 文和元年(1352年)5月4日、出家。法名は慈寂。康安元年(1361年)、薨去。

広橋仲光 広橋仲子

 日記『仲光卿記』が伝わる。南都伝奏として足利義満と様々な案件の折衝にあたったことで知られる。
 延文3年/正平13年(1358年)、元服し叙爵される。延文4年/正平14年(1359年)、従五位上に昇叙。治部少輔に任ぜられる。延文5年/正平15年(1360年)、蔵人に補される。貞治2年/正平18年(1363年)、正五位下に昇叙され右少弁に任ぜられる。貞治5年/正平21年(1366年)、左少弁に転任し正五位上に昇叙。応安7年/文中3年(1374年)には権右中弁、左中弁と昇進し、位は従四位下、従四位上、正四位下と昇叙。永和2年/天授2年(1376年)、蔵人頭に補される。永和3年/天授3年(1377年)、正四位上に昇叙。
 永和4年/天授4年(1378年)3月24日、参議に任ぜられる。右大弁は元の如し。12月13日、従三位に叙せられ権中納言に任ぜられる。永徳元年/弘和元年(1381年)1月6日、正三位に昇叙。3月16日、従二位に昇叙。6月29日、大宰権帥を兼ねる。至徳2年/元中2年(1385年)1月6日、正二位に昇叙。嘉慶2年/元中5年(1388年)12月30日、権大納言に任ぜられる。応永2年(1395年)6月3日、権大納言を辞した。応永3年(1396年)10月20日、従一位に叙せられるが、翌21日に出家した。法名は曇寂。応永13年(1406年)2月12日、薨去。

 後光厳天皇の典侍で、後円融天皇の生母。広橋兼綱の養女で、実父は石清水八幡宮祠官善法寺通清(紀氏)。生母は四辻宮尊雅王の娘(法名智仙聖通)とされる。院号は崇賢門院。姉妹に紀良子(足利義詮側室で足利義満生母)、伊達政宗正室の輪王寺殿がいる。比丘尼御所の大慈院(南御所)開基とされる。
 後光厳天皇の典侍となり、延文3年(1358年)に緒仁親王(後円融天皇)を、貞治元年(1362年)に熙永親王(永助入道親王)を、同2年(1363年)に尭仁法親王を、応安4年(1371年)に尭性法親王を産む。同7年(1374年)11月従三位に叙され、同8年(1375年)1月に落飾、康暦2年(1380年)1月、准三宮宣下を受けた。永徳2年(1382年)には後円融天皇が後小松天皇に譲位。同3年(1383年)、後円融上皇が妃の三条厳子を打擲する事件があり、駆け付けた仲子は酒を勧めて後円融を宥めつつ、出血の止まらない厳子が治療のために退出できるようはからっている。その後、後円融が持仏堂に立て籠もり、切腹すると宣言した際も宥めて事なきを得ている。同年4月25日に院号宣下があり、崇賢門院の院号を与えられた。 応永34年(1427年)5月20日、89歳で死去した。『新後拾遺和歌集』以下の勅撰集に8首入集。