<藤原氏>北家 真夏流

F331:広橋頼資  藤原真夏 ― 日野資業 ― 日野実綱 ― 日野有信 ― 日野資長 ― 広橋頼資 ― 広橋兼宣 F332:広橋兼宣


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広橋兼宣 広橋綱光

 3歳で学問料を与えられ、5歳で文章得業生となるなど破格の扱いを受ける。応安5年/文中元年(1372年)に元服し、翌年にはわずか8歳で叙爵されて治部権少輔に任ぜられた。応永7年(1400年)には参議に任ぜられた。応永17年(1410年)に正二位権大納言に任ぜられ、応永30年(1423年)には従一位大納言に任ぜられた。応永32年(1425年)に出家するが、その直前に准大臣に任ぜられ、准大臣任命直後には、自亭に「裏築地」を造営して物議を醸した。
 武家伝奏として室町幕府との交渉にあたり、その様子は日記『兼宣公記』に記されている。また、娘は後花園天皇の乳母となった。没後、内大臣を贈官されている。
 鎌倉時代末期以後、院近臣であった名家出身者が本来の家格を越えて出世する例が相次ぎ、室町時代に入ると日野流や勧修寺流の名家が治天の君や室町幕府と密接に結び付いたことで稀ではあるが大臣に任じられる者が現れ、それを例外としても従一位・准大臣が現実的な極位極官とみなされるようになった。
 兼宣は同じ日野流の日野資教と激しく対立していた。兼宣は資教が受けることのなかった准大臣の地位に就くことを望んでいた。結果的には、後小松院と足利義持の協議の結果、兼宣が出家する4月27日に両者同時に准大臣宣下を行うこととした。ただ、事態はこれで収まらず、兼宣は自亭に裏築地を構築したことが思わぬ騒動となった。裏築地とは、邸宅の築地の外側なおかつ街路に面した部分に二重に構築された築地のことで、天皇や院、親王・門跡・摂関や大臣以下の公卿などに設置が許されていた。本来であれば、従一位である兼宣が准大臣宣下を受けて構築することは問題視されるものではない(少なくても兼宣はそう考えていた)が、当時の公家社会は困窮しており摂関家ですら実際に裏築地を構築することを遠慮していた。その中で兼宣が裏築地を構築したことで、ただでさえ兼宣と資教の争いを身分不相応と快く思っていなかった摂関家・清華家・大臣家といった上級家格の公卿を中心として批難の声が高まった。また、後小松院も義持も不快感を示した。義持は兼宣に対して自発的に裏築地を撤去すること、さもなくば幕府が実力で撤去することを伝えたため、兼宣はこれに従って自ら撤去をした。
 だが、広橋兼宣と日野資教の争いは思わぬ形で終わりを迎える形になる。日野資教の子・有光は禁闕の変によって処刑され、代わって日野家の継承を許された広橋兼宣の子・兼郷も足利義教の不興を買い所領を奪われて一時断絶に追い込まれることになる。

 文安2年(1445年)に元服して従五位下治部少輔となる。文安5年(1448年)に蔵人となり、宝徳2年(1450年)には右少弁,左少弁,権右中弁と転じ、享徳元年(1452年)に右中弁、翌年には左中弁,蔵人頭,右大弁と転じて享徳3年(1454年)に参議。康正元年(1455年)に左大弁に転じ、翌年には権中納言,右兵衛督,検非違使別当、長禄3年(1459年)以後、家職であった武家伝奏を務める。寛正6年(1465年)に従二位、文明2年(1470年)に権大納言、文明5年(1473年)に正二位。文明8年(1476年)には南都伝奏を兼務。
 武家伝奏のみならず、後土御門・後柏原両天皇の乳母や二条政嗣室を娘に持つなど、宮廷にも強い人脈を有し、死の間際には摂関家の左右両大臣が有していなかった従一位に叙されて准大臣宣下を受けている。

広橋保子 広橋兼勝

 はじめ、摂関家の一条兼冬の室となったが、天文23(1554)年死別、その後、弘治2(1556)年、後奈良天皇の後宮に女房として出仕した。しかし、翌年、天皇の崩御によって退下したらしい。永禄3(1560)年以前に松永久秀の妻となり、芥川山城で生活したが、久秀が多聞山城へ移ると保子もこれに従い多聞山城に入ったと考えられる。
 久秀の主君・三好長慶が帰依した大林宗套から「仙渓」の号を授与されている。その死にあたっては、笑嶺宗訢が主導して葬礼が行われた。また、久秀自身は、妻を弔うために三好元長の墓地のある南宗寺の裏に勝善院を建立した。久秀は保子を主君と同格の待遇で弔っており、それゆえ保子への愛情は深かったと考えられる。

 永禄5年(1562年)12月6日の従五位下の叙位に始まり、天正8年(1580年)1月5日には参議兼左大弁、慶長2年(1597年)1月11日には権大納言となり、翌慶長3年(1598年)10月13日に正二位となった。
 慶長8年(1603年)、徳川家康に征夷大将軍の内示を与えた。同年2月12日から没するまで武家伝奏に任じられ、公家の中でも最も武家寄りの行動をとり、朝廷と幕府の融和に努めた。大坂冬の陣でも家康と豊臣秀頼の和睦を尽力する。しかし慶長14年(1609年)には、猪熊事件に関与した娘の広橋局が伊豆新島に配流、兼勝も事件が発覚した7月4日以後は謹慎していたが、娘の処分が確定した10月以後は復帰している。慶長8年の家康参内以来、武家昵近衆として将軍との諸礼に出仕、朝廷内の政務・儀式に通じた実務官僚の1人として、朝廷と家康を結ぶパイプ役としての役割も果たした。昵近衆には他に兄の輝資,甥の日野資勝,息子の広橋総光なども選出されている。
 慶長18年(1613年)4月9日に京都所司代・板倉勝重と共に駿府へ下向して公家衆法度の作成に関わり、6月16日に制定された公家衆法度を家康から渡されると、帰京して7月12日に法度を公家衆に披露した。慶長19年(1614年)3月と4月に勅使として家康および子の2代将軍・徳川秀忠の官位昇進、秀忠の娘・和子(東福門院)の入内宣旨を伝えたり、元和元年(1615年)7月17日に禁中並公家諸法度を公家衆の前で読み上げる役目を果たした。翌元和2年(1616年)に危篤となった家康の太政大臣任官を朝廷に伝えるため、駿府と京都を往復したこともあった。
 元和4年(1618年)11月14日に内大臣となるが、翌元和5年(1619年)2月17日に辞職、元和8年12月18日(1623年1月18日)に薨去、享年65。死去に際して『春日社司中臣祐範記』には「叡慮悉皆御執権、出頭無双之伝奏也」とあり、その権勢は絶大だった。一方で、武家の朝廷への圧力に反発する後水尾天皇の側近公家衆からは厳しく評されている。

日禎

 本圀寺(当時は本國寺)16世、後に常寂光寺開山。
 幼い頃、本國寺15世日栖の門に入り、18歳にして同寺16世となる。文禄4年(1595年)、豊臣秀吉が建立した方広寺大仏殿千僧供養に不受不施義の教義を守って出仕しなかった。文禄5年(1596年)4月に本國寺を発ち、開祖の日蓮の佐渡の霊跡を巡拝した。同年、京に戻ると小倉山に常寂光寺を開山して隠棲した。京の町衆に篤く信頼されており、豪商角倉了以が嵯峨の小倉山の土地を寄進した。のちに了以の大堰川改修工事を支援している。