F331:広橋頼資 | 藤原真夏 ― 日野資業 ― 日野実綱 ― 日野有信 ― 日野資長 ― 広橋頼資 ― 広橋兼宣 | F332:広橋兼宣 |
リンク | F333・{F321}{F886}{F893}{OU07} |
広橋兼宣 | 広橋綱光 |
---|---|
3歳で学問料を与えられ、5歳で文章得業生となるなど破格の扱いを受ける。応安5年/文中元年(1372年)に元服し、翌年にはわずか8歳で叙爵されて治部権少輔に任ぜられた。応永7年(1400年)には参議に任ぜられた。応永17年(1410年)に正二位権大納言に任ぜられ、応永30年(1423年)には従一位大納言に任ぜられた。応永32年(1425年)に出家するが、その直前に准大臣に任ぜられ、准大臣任命直後には、自亭に「裏築地」を造営して物議を醸した。 |
文安2年(1445年)に元服して従五位下治部少輔となる。文安5年(1448年)に蔵人となり、宝徳2年(1450年)には右少弁,左少弁,権右中弁と転じ、享徳元年(1452年)に右中弁、翌年には左中弁,蔵人頭,右大弁と転じて享徳3年(1454年)に参議。康正元年(1455年)に左大弁に転じ、翌年には権中納言,右兵衛督,検非違使別当、長禄3年(1459年)以後、家職であった武家伝奏を務める。寛正6年(1465年)に従二位、文明2年(1470年)に権大納言、文明5年(1473年)に正二位。文明8年(1476年)には南都伝奏を兼務。 |
広橋保子 | 広橋兼勝 |
はじめ、摂関家の一条兼冬の室となったが、天文23(1554)年死別、その後、弘治2(1556)年、後奈良天皇の後宮に女房として出仕した。しかし、翌年、天皇の崩御によって退下したらしい。永禄3(1560)年以前に松永久秀の妻となり、芥川山城で生活したが、久秀が多聞山城へ移ると保子もこれに従い多聞山城に入ったと考えられる。 |
永禄5年(1562年)12月6日の従五位下の叙位に始まり、天正8年(1580年)1月5日には参議兼左大弁、慶長2年(1597年)1月11日には権大納言となり、翌慶長3年(1598年)10月13日に正二位となった。 |
日禎 | |
本圀寺(当時は本國寺)16世、後に常寂光寺開山。 |