<藤原氏>北家 真夏流

F332:広橋兼宣  藤原真夏 ― 日野資業 ― 日野実綱 ― 日野有信 ― 日野資長 ― 広橋頼資 ― 広橋兼宣 ― 広橋総光 F333:広橋総光


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広橋伊光 広橋光成

 准大臣。広橋家23代当主。22代当主・広橋勝胤の子として誕生。
 尊号事件では、議奏を務めていたため罪に問われ、寛政5年(1793年)に参内20日停止となった。享和3年(1803年)から文化10年(1813年)9月まで、武家伝奏を長く務めた。法号は勁松院。日記『勁槐記』を残した。

 京都で誕生。寛政10年(1798年)2歳で従五位下、享和2年(1802年)元服し従五位上。文政7年(1824年)参議、文政11年(1828年)権中納言、弘化2年(1845年)正二位・権大納言と昇進を重ねる。
 天保6年(1835年)議奏を経て、安政4年(1857年)武家伝奏となる。翌年、条約勅許問題では朝幕間の調停に努めた。その後も和宮降嫁などに腐心する。安政の大獄では処分を受けた。万延元年(1860年)11月23日、従一位。文久2年(1862年)准大臣に昇進するも翌日に薨去した。

広橋胤保 広橋賢光

 1859年(安政6年)、参議兼左大弁。のち正二位権大納言。祐宮(のちの明治天皇)の習字師範でもある。1863年(文久3年)、議奏となって公武合体に務めたため、王政復古で参朝を止められた。1876年(明治9年)11月14日死去。

 

 山城国京都で権大納言・広橋胤保の第三子として生まれる。父の死去に伴い1876年(明治9年)12月5日、家督を相続。1884年(明治17年)7月7日、伯爵を叙爵した。
 1876年、内務省に入省。以後、参事院議官補,法制局参事官,福岡県書記官,同第一部長,内務書記官,内務省参事官,同地理局長,内閣記録局長兼文事秘書官,宮内省調査局長,帝室制度調査局御用掛などを歴任した。1882年(明治15年)、伊藤博文の憲法調査に随行してヨーロッパ各国を訪問し、翌年に帰国。
 1890年(明治23年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、1897年(明治30年)7月9日まで在任した。

広橋真光

 明治35年(1902年)、伯爵・広橋賢光の嫡男として誕生。明治43年(1910年)、襲爵。大正15年(1926年)に東京帝国大学を卒業し、翌年内務省に入省する。この年の12月2日、梨本宮家から規子女王が降嫁する。昭和15年(1940年)、近衛文麿首相の元で内閣総理大臣秘書官を務め、次の東條内閣でも留まった。
 昭和22年(1947年)、千葉県知事・小野哲が突如参議院選挙への出馬を表明して辞任したために同県知事に転じる。翌月には新憲法の元で公選による県知事が決定するまでの38日間職務にあたった。
 その後は特別調達庁横浜局長などを務め、退官後は企業の取締役や『東條内閣総理大臣機密記録』(東京大学出版会)の編集事業に携わった。また、昭和25年(1950年)に行われた第2回参議院議員通常選挙に自由党公認で全国区から立候補するが落選している。