<神皇系氏族>天孫系

SW08:五条高長  土師身臣 ― 菅原古人 ― 菅原道真 ― 高辻是綱 ― 五条高長 ― 東坊城茂長 SW11:東坊城茂長

 

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東坊城秀長 東坊城長遠

 少納言,大学頭,文章博士などを経て康暦2年/天授6年(1380年)に後円融天皇の侍読に任ぜられ、永徳3年/弘和3年(1383年)3月28日に従三位右大弁に任ぜられる。明徳2年/元中8年(1391年)12月24日に参議に任ぜられ、翌年には北野長者となる。応永9年(1402年)に正二位に叙せられた。応永18年(1411年)に74歳で死去。
 将軍・足利義満からの信任が厚く、義満に『孟子』を講義するとともにテキストとして写本を進上したことが知られている。また、義満の子である足利義持・義嗣・義円らにも学問を教授し、「義嗣]の諱を撰した。日記に『迎陽記』があり、江戸時代に林鵞峰が『本朝通鑑』南北朝期の編纂を行った際には、『園太暦』と並んで参考文献として用いられた。 

 少納言,文章博士などを経て応永18年(1411年)12月14日に従三位に叙せられる。翌19年(1412年)1月28日に大蔵卿に任じられ、10月14日に称光天皇の侍読に任ぜられる。応永21年(1414年)に正三位に叙せられ、次いで右大弁に任ぜられるが1か月で辞任する。応永24年(1417年)1月に従二位に叙せられ、同年12月の将軍・足利義持の嫡男の元服に際して「義量」の名を勘申した(後の5代将軍)。応永26年(1419年)3月10日に参議に任ぜられ、在任中の応永29年(1422年)に58歳で急死、没後の7月28日に正二位を贈位された。詩文の講頌に優れ、従兄弟の西坊城長政とともに称光天皇の信任が厚かった。また、彼の死を聞いた貞成親王は「頌道の零落」を嘆くとともに、勾当内侍を務める彼の妹が伊勢神宮に下向中であったことを記している。 
東坊城益長 東坊城和長

 応永27年(1420年)閏1月12日に従五位上に叙せられる。2年後に父が死去するが、その後も昇進を重ねた。20代の頃に将軍・足利義教で不興を買って2度処分されているが、永享13年(1441年)の改元では彼が勧進した「嘉吉」が採用されたことが注目されるようになる。嘉吉3年(1443年)に侍読に任ぜられ、翌年には侍読の功によって従三位左大弁に任ぜられる。
 文安3年(1446年)12月12日に参議に任ぜられているが、その翌日に次期将軍である前将軍・足利義勝の弟の諱として「義成」を勧進する。文安5年(1447年)には後花園天皇の生母・庭田幸子が女院となった際に院号を勧進する。文安6年(1448年)2月に権中納言に任ぜられ、7月には正三位に叙せられる。
 享徳元年(1452年)閏8月18日に従二位に叙され、康正2年(1456年)に菅原氏では道真以来約460年ぶりに権大納言に任ぜられる。権大納言は2年後に辞任するが、その後も後花園・後土御門天皇の侍読の地位にあり、破格の出世もその功績によるところが大きい。なお、後土御門天皇の御名「成仁」は長禄元年(1457年)に益長の勧進によって定められている。ところが、文明3年(1472年)に嫡子の長清が急逝し、遺された孫の和長を養育することになる。だが、その3年後に68歳で没した。三条西実隆は彼の死を聞いて、「譜代の鴻儒・当時の碩才」と評し、その死を惜しんでいる。

 文明3年(1471年)1月4日、父・長清が滞在中の伊勢国六車荘で急死する。そのため、祖父の東坊城益長によって育てられるが、3年後に祖父も病死する。更に文明8年(1476年)11月13日の火災で邸宅に被害を受けるなど、若い頃は多難な境遇に置かれていた。だが、同族の西坊城顕長らの支援を受け、文明11年(1479年)には文章得業生となり、翌年1月までに典薬頭に任じられた。
 文明15年(1483年)3月6日に叙爵を受け、4日後に蔵人の功によって侍従に補任された。文明18年(1486年)6月16日に少納言を兼ね、同年11月15日に従五位上に叙された。文明19年(1487年)に行われた改元の仗議の際に列席する必要がある文章博士が空席であることが問題になった。文章博士を出す家々に適任者がおらず、やむなく従五位上の和長が文章博士に任ぜられた。
 明応5年(1496年)の唐橋在数の殺害事件では、事件を起こした前関白・九条政基の責任を厳しく追及する一方で、在数の死によって空席となった大内記の地位を手にした。明応7年(1498年)に正四位下に叙せられるが、位記の作成は大内記の職務であったことから、自分で自身の位記を作成するという体験をしている。明応8年(1499年)には文章博士・大内記のまま大学頭を兼務し、明応10年(1500年)の改元では「文亀」の元号を勧進、その功績によって改元前日の2月18日に文章博士叙留のまま従三位に叙せられ、3月18日には参議に転じた。
 永正3年(1506年)10月13日に正三位に叙せられ、12月5日には高辻章長とともに侍読に任ぜられた。永正4年(1507年)4月9日に権中納言に任じられ、永正6年(1509年)2月27日に大蔵卿を兼ねる。永正12年(1515年)8月10日に権中納言を辞任するが、同月25日にその功によって従二位に叙される。永正15年(1518年)12月10日に正二位に叙され、永正17年(1520年)1月18日に権大納言に任ぜられる。大永2年(1522年)9月6日に高辻長直の死によって氏長者(北野の長者)に任ぜられる。同年12月9日に権大納言を辞任する。享禄2年(1529年)12月20日に70歳で死去。

東坊城徳長 東坊城恭長

 明治17年(1884年)8月8日に華族に列せられ子爵の爵位を授爵する。後に宮中に仕え、御製取調掛,掌典,明治天皇御製臨時編纂部員,御歌所参候,御歌会始奉行等を歴任する。明治44年(1911年)子爵議員として貴族院議員に就任、研究会に属す。東坊城家の先祖の菅原道真を祀る大田神社奉賛会である東風会会長を明治35年(1902年)より務めた。死後、嫡男の政長が継いだ。
 次女の敏子は大正期に貞明皇后付の女官として長年勤め、宮中でその美貌から禁廷に咲く白百合一輪、通称、白百合の局と呼ばれ、長田幹彦『小説天皇』のヒロインのモデルとなった。後に目黒雅叙園の創始者である細川力蔵に嫁いだ。俳優の東坊城恭長は3男、女優の入江たか子(本名:英子)は3女、入江若葉は外孫に当る。

 慶應義塾大学予科を卒業後、京都に移り、23歳、小笠原明峰が1923年に京都に設立したばかりの映画会社「小笠原プロダクション」に入社、大正末期の無声映画時代に映画俳優となる。1924年、20歳のときに三善英芳こと小笠原章二郎監督の『泥棒日記』、あるいはその兄・小笠原明峰監督の『海賊島』の端役でデビューとされる。
 つぎに京都の日活大将軍撮影所に入社、「現代劇部」の映画俳優としてキャリアが始まる。最初にクレジットとして記録に残っている作品は村田実監督の『青春の歌』で、同作は1924年12月5日に鈴木傳明主演作として浅草三友館を皮切りに全国で公開された。翌1925年には、溝口健二監督の『小品映画集《街のスケッチ》』や翌1926年の村田実監督の『故郷の水は懐し』では、小品といえど主役を張るようになる。当時の俳優仲間には、のちに映画監督となる島耕二や渡辺邦男がいた。
 やがて1927年、脚本家としてデビューする。初脚本作は内田吐夢監督の『靴』で、同年3月26日に浅草三友館を皮切りに全国で公開された。俳優業は、同年5月1日に全国で公開された村田実監督,夏川静江主演の『椿姫』を最後に廃業した。大将軍撮影所では1928年秋までに9本を監督した。
 1928年、新設の日活太秦撮影所に移る。ここでも1929年-1932年の間に11本を監督した。1932年1月、同撮影所での監督作10作目、サトウ・ハチロー原作、市川春代主演の『浅草悲歌』に出演した直後、まだ20歳だった妹・入江たか子が同撮影所から独立、製作会社「入江ぷろだくしょん」を設立した。そこで、東坊城も1932年末をもって古巣の日活を退社、「入江ぷろ」に入社、阿部豊監督の『須磨の仇浪』や、かつて俳優時代に主演に抜擢してくれた溝口健二監督の『瀧の白糸』の脚本を書く。また同社の提携先の新興キネマで、3本の無声映画を監督した。
 1935年、新興キネマ京都撮影所の放つ、絢爛豪華な正月作品『春姿娘道中』の監督に抜擢される。同作は東坊城にとって初めての「サウンド版」映画の現代劇であったが、これが東坊城にとっての最後の監督作となった。
 1940年、佐藤武監督、吉屋信子原作、妹の主演作『妻の場合 前・後篇』(トーキー;東宝映画)の脚本を書いたが、同作を最後にその後の活動は不詳。1944年9月22日に死去。40歳没。 

東坊城英子

 明治から昭和期の日本の映画女優。芸名は入江たか子。1927年(昭和2年)、文化学院を卒業後、日活京都撮影所の俳優で兄の東坊城恭長(後に監督・脚本家)を頼って京都に移る。同年、兄の友人で「エラン・ヴィタール小劇場」の主宰者・野淵昶に請われて女優として新劇の舞台に立つ。それを観た内田吐夢の目に留まり、その勧めに従い同年、日活に入社。同年、内田監督の『けちんぼ長者』で映画デビュー。華族出の入江の突然の映画界デビューは、当時の世を騒然とさせた。以後、村田実の『激流』、内田の『生ける人形』、溝口健二の『東京行進曲』などに主演し、たちまち、日活現代劇人気ナンバー1女優の地位につく。
 1932年(昭和7年)、新興キネマと提携して映画製作会社「入江ぷろだくしょん」を創立。女優の独立プロも現代劇の独立プロも「入江ぷろ」が初めてであった。この時代、入江たか子は日本映画界最高の位置にあった。その第1作は溝口健二監督、中野英治共演による『満蒙建国の黎明』だった。この作品は満州建国を背景に川島芳子からヒントを得た超大作で海外ロケを行い、半年の製作日数をかけた大々的なものだった。
 この後、日活の俳優・田村道美と結婚し、のちにたか子のマネージャー・プロデューサーとなる。田村が自らの人気を考えて結婚を公表せず、籍も入れない別居生活であったため、兄の恭長は田村を嫌い、映画界を辞める。結婚10年後に子供が生まれ、これを機に法的にも結婚する。
 1935年(昭和10年)頃は人気の絶頂にあり、この年のマルベル堂プロマイドの売り上げでは、1位が入江たか子、2位が田中絹代であった。しかし、1937年(昭和12年)に吉屋信子の人気小説を映画化した『良人の貞操』のヒットを限りに「入江ぷろだくしょん」は解散、東宝と契約。
 戦時下に相次ぐ兄3人の死に直面し、仕事に対する情熱も冷めかけ、戦後は病気がちとなり、それに輪をかけるように主役の仕事も減っていった。1950年(昭和25年)にはバセドウ病の宣告を受け、無理を押して仕事をしながら入院費を工面し、ようやくのことで1951年(昭和26年)末になり大手術を受け、命を取り留める。
 退院後、大映と年間4本の契約を結ぶ。大映の戦前の「化け猫映画」のリメイクの主役を引き受け、迫真の演技が受け映画は大当たり、次々と化け猫役が舞い込んだが、一方で「化け猫女優」のレッテルを貼られる。
 1955年(昭和30年)、溝口監督の『楊貴妃』に出演したが、過去には雇われの身であった溝口の執拗な嫌がらせに耐えきれなかった入江は降板している。
 1959年(昭和34年)、芸能界に見切りをつけ、銀座に「バー・いりえ」を開き、実業界に転身する。その後は娘の女優、入江若葉の夫の店である有楽町のとんかつ店を手伝いながら余生を過ごした。その間、黒澤明の『椿三十郎』、市川崑の『病院坂の首縊りの家』、大林宣彦の『時をかける少女』、同じく大林の『廃市』に請われて出演した。娘の若葉によると、かつて化け猫を演じた姿を「女優の生き様として知って欲しい」と、若葉に往年の化け猫映画を進んで見せたという。
 1995年(平成7年)1月12日、肺炎のため死去。享年83。