幼くして父を失ったが、応永29年(1422年)1月11日に32歳で正五位下式部権少輔に任ぜられると、順調に昇進を重ね、正長2年(1429年)の釈奠の時には文章博士であった。その後、大内記,大学頭などを歴任し、嘉吉4年(1444年)1月6日に従三位に叙せられ、同29日には参議に任ぜられた。その後、式部権大輔に転じ、宝徳4年(1452年)3月18日には従二位に叙せられ、康正元年(1455年)11月15日に権中納言に任ぜられた。長禄元年(1457年)10月には氏長者「北野の長者」に任ぜられ、寛正元年(1460年)4月2日には権大納言に任ぜられて3日で辞任している(唐橋家の権大納言の初例)。 摂関家である九条家に家司・侍読として出仕して、後に婚姻関係を結んだ。嘉吉4年(1444年)の除目で、息子の在治が大内記に任ぜられたのを、万里小路時房が「父の才学」による人事と批判しているが、裏を返せば在豊の能力を高さを示すものと言える。また、「永享」「文安」の両元号の勘申者とされている。
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正四位下大学頭文章博士大内記。一色氏に養子にいった一色昭孝(足利義昭より偏諱の授与を受ける。昭孝は後に唐橋に復姓し、名を在通と変えている)は『寛政譜』によるとに次男とされるが、『唐橋家譜』では在名の子としている。 唐橋家は摂関家九条家の家令であったが、主人であった九条政基とは従兄弟同士でもあった。しかし、九条家は応仁の乱以降経済的に困窮し、執事の在数にも借金をしていたようであった。これが原因で在数と政基の仲は険悪化し、九条家への出仕も止められた。明応5年(1496年)正月、在数は九条邸に押しかけて、主君の政基・尚経父子に返済の談判をした。これに怒った政基・尚経は在数を惨殺した。家臣とはいえ、在数は朝臣で公卿である。唐橋家の一族である菅原氏の一族は猛烈に抗議し、政基・尚経父子は勅勘を受け、朝廷への出仕を止められた。
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