元仁元年12月(1225年)若くして文章生となる。嘉禄3年(1227年)に文章得業生。安貞2年(1228年)に従五位下・甲斐権守に叙任される。兵部少輔,阿波介,大内記などを歴任し、仁治3年(1242年)に長門守に任ぜられたのち従四位下、続いて従四位上に叙される。建長6年(1254年)に大学頭、文応元年(1260年)に文章博士と代々務めていた官職を承る。 弘長2年12月(1263年)従三位に叙され公卿に列す。文永8年(1271年)に従二位・式部大輔に叙任され、翌文永9年(1272年)に豊前権守となる。建治元年(1275年)に式部大輔を辞退した後は15年間官職に就くことはなかった。弘安7年11月24日(1285年1月1日)薨去。享年77。
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応永年間(1394~1428年)初頭の誕生と推定され、同24年(1417年)の釈奠に正五位下・式部少輔として参列したことが『康富記』に記されている。この時は、為清が講師を務める予定であったが、「才学無きため」、上首である講頌を高辻家長と役目を交替したとある。もっとも、これは若年で未経験であったことによるもので、経験を積み重ねることでその能力を高めていき、同32年(1425年)には大内記に任じられ、3年後の称光天皇崩御の際には追号「称光院」を勘申した。その後、少納言を経て、永享9年(1437年)には従三位大蔵卿に任ぜられ、続いて後花園天皇の侍読となった。この頃には後小松法皇,伏見宮貞成親王からも厚く信任された。特に貞成親王は世尊寺行長から「菅家数輩有りといへども、為清一人儒道の風を残す」という評判を聞き、後に意見を求めるために召し出して以後は、中原康富と並んで重用したという。嘉吉元年(1441年)に高辻長郷を越えて左大弁に任ぜられ、翌2年(1442年)には正三位に叙せられるが、前年冬からの病が悪化して同年10月に死去した。死に際して参議に任ぜられた。 |