慶長16年(1611年)2月、従五位下に叙される。慶長18年(1613年)1月、侍従となる。慶長19年(1614年)1月、少納言・文章博士になる。寛永5年(1628年)4月、大内記となる。寛永9年(1632年)正月、従三位に叙される。寛永10年(1633年)11月12日、大蔵卿となる。寛永16年(1639年)、参議となる。慶安元年(1648年)12月22日、権中納言となる。 年号「慶安」の勘申者である。
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権中納言・五条為定の息子として生まれる。安政2年3月(1856年)に元服し昇殿を許された。 安政5年(1858年)廷臣八十八卿列参事件に加わった。その後、大学頭,侍従,文章博士を歴任。文久4年(1864年)に入り、同年2月の元治の元号を勘申した。元治元年7月19日(8月20日)の禁門の変では長州藩側として動き、参朝停止となる。慶応3年1月(1867年)に赦され、同年11月20日(12月15日)参与助役に就任。鳥羽・伏見の戦いが起こり、慶應4年1月4日(1868年1月28日)錦旗奉行となる。その後、中国四国追討使副督に任じられ同年1月28日(2月21日)まで従軍。同年2月20日(3月13日)参与・刑法事務局権輔に就任。以後、軍務官兵学校奉行助役,三等陸軍将を歴任。 明治2年6月2日(1869年7月10日)戊辰の戦功により賞典禄50石を永世下賜された。同年7月22日(9月8日)陸軍少将に任じられた。以後、次侍従,侍従,東京府十等出仕,山形県第一大区区長,同最上郡長,同東村山郡長,元老院准奏任官御用掛などを歴任。 明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵。元老院書記官を務め、明治21年(1888年)6月7日、元老院議官となり、その明治23年(1890年)10月20日の廃止まで在任し非職、同日、錦鶏間祗候を仰せ付けられる。同年7月10日、貴族院子爵議員に当選し、死去するまで在任した。
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