<神皇系氏族>天孫系

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若江公義 若江景長

 神宮祭主・藤波季忠の子として、明和2年(1766年)に生まれる。父・季忠は、大中臣氏二門の血統であり養父・和忠の実子である寛忠を既に養子に取っていたため、安永10年(1781年)の17歳での叙爵の後、寛政11年1月18日(1799年2月22日)、若江長公の養子となった。
 寛政12年7月26日(1800年9月14日)、36歳で元服して越後権介に任じられ、同年11月19日(1801年1月3日)には院昇殿を許された。享和元年7月28日(1801年9月5日)、義道を公義と改名した。
 文化14年4月14日(1817年5月29日)、再び院昇殿を許される。文政11年(1828年)、64歳で卒去した。

 元は医道を家業とする丹波宿禰氏嫡流の錦小路家の生まれで、量長は修理大夫頼理の3男として、文化9年(1813年)に誕生した。文政7年(1824年)、叙爵される。文政8年3月28日(1825年5月15日)、14歳で元服し院昇殿を許され、越後権介に任じられる。
 幕末、文久の修陵などにより、宮中に諸陵寮が再興されることとなった。そこでその長官である諸陵頭への競望を、摂家諸大夫、次に親王家諸大夫に尋ねたが誰も名乗りを上げなかった。これは元日から正月15日までや神事のときに朝廷出仕が停止させられる不便があり、また陵墓への穢所意識があったと考えられる。そこで、二条斉敬が摂家らに相談した結果、常に勤仕することのない身分であった量長に宣下されることになった。
 しかし、諸陵頭に就いたとはいえ、陵墓に関して多く知識を持っていたわけではなく、諸陵寮官人となった谷森善臣,鈴鹿勝芸に任せていたという。
 明治5年8月15日(1872年9月17日)、平松時言の叔父・範忠を養子とし、その5日後、61歳で卒去した。

若江薫子 若江範忠

 幕末から明治初期の女流漢学者。尊皇運動家としても著名で、後に一条美子(後の昭憲皇太后)の学問師範を務める。号は秋蘭。
 実家の若江家はもともと菅原氏出身の堂上の公家であったが、戦国時代の混乱のため絶家し、江戸時代になって徳川家光からの執奏により再興された。しかし後水尾院の勅勘で、堂上家からは転落、以後は江戸時代末期まで伏見宮付殿上人(諸大夫の上位)を勤めた家柄であった。
 更にその後も後継者たる男子に恵まれず、再興後も3,4,5,8,9代が他家から養子相続であり、薫子の父・量長も錦小路家からの養子で、薫子も男兄弟は無く3人姉妹の次女であった。
 幼少時から学問好きの才媛として公家社会の中では有名人であったが、一方で野暮で理屈っぽい醜女として避けている人も多かったようである。早くから岩垣月洲門下生となり漢学に習熟、15,6歳の頃には経史百家を完読、数年後には文天祥の著書『指南集』の釈義を書いて周囲を驚かせたと言われる。
 その才女ぶりが宮中に聞こえるところとなり、慶応3年8月9日(1867年9月6日)には明治天皇女御となった一条美子(後の昭憲皇太后)の学問師範に抜擢される。明治維新後は皇后付き女官として政治的にも絶大な発言力を誇るようになり、建白書を多く書いたことから「建白女」と渾名されるまでに至るが、儒教に根本を置く彼女の理想は、欧米文化を重視する新政府の方針と対立することが多く、次第に新政府要人から警戒されるようになる。
 明治2年(1869年)に東京奠都に反対する建白や、横井小楠を殺害した十津川郷士の助命嘆願を行い新政府の不興を買い、参内を禁じられる。更に明治5年(1872年)に父・量長が死去、急養子に迎えられた範忠との不仲のため、遂に家を追われる。その後は門弟を頼りに西国を転々とし、滞在先で婦道を講義する流浪の生涯を送り、1881年(明治14年)、滞在先の香川県丸亀にて死去。墓所は玄要寺(丸亀市),西園寺(京都市)。1928年(昭和3年)11月10日、生前の功績により正五位の位記を贈られた。 

 平松家出身であったが、平松時門の次男(御厄介)であったため、西園寺家には家来同然のように扱われるなど、正式に平松家の人間として扱われることは少なかった。
 天保11年(1840年)に、当時の大典侍・勧修寺徳子によって稚児に命じられ、成長して退身してからは石清水八幡宮の坊官となり、その後還俗して平松家の「御厄介」となった。その後は「葛野式部」を名乗った。葛野姓は、西洞院時良の次男・勝成が称した氏である。
 明治5年(1872年)8月5日には若江量長の養子となっている。