<神皇系氏族>天孫系

SW03:菅原道真  土師身臣 ― 菅原古人 ― 菅原道真 ― 高辻是綱 SW04:高辻是綱

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高辻是綱 高辻為長

 菅原氏長者。高辻家の祖。文章得業生を経て、白河院政期にかけて大学頭,文章博士などを歴任。この間、武蔵守,常陸介などの受領も兼ねた。位階は正四位下に至る。
 嘉承2年(1107年)3月1日卒去。享年78。

 元暦2年(1185年)に秀才、次いで文治3年(1187年)に献策。同年従五位下に叙爵。これ以降、五摂家のひとつ九条家の家司として仕えることとなり、その間、九条家の子弟に対して家業である紀伝道(文章道)の教育にも当たる。以後、官位は兵部少輔,大内記,式部少輔等を経て、元久元年(1204年)には菅原氏歴代が補任される文章博士に昇進。同年、土御門天皇の侍読となり、以降順徳・後堀河・四条・後嵯峨の5代の天皇に亘り侍読を務める。
 承元4年(1210年)1歳年少の氏長者・菅原在高が従三位に叙せられ、菅原輔正以来200年以上ぶりに菅原氏から公卿を出したが、翌建暦元年(1211年)には為長も続いて従三位に昇叙され公卿に列した。更に建保3年(1215年)には大蔵卿に転任。以後薨去まで同職に留任することになる(参議に任じられていた2年間を除く)。
 承久3年(1221年)には正三位に昇叙。次いで同閏10月には文章博士,大学頭と並び歴代の菅原氏が補任される式部大輔を兼任する。そして終に嘉禎元年(1235年)には、悲願である参議に任ぜられる。為長の参議任官は菅原氏においては前述の輔正以来、実に226年ぶりの出来事で、従三位に叙せられたこと以上の大事件であり、為長の参議叙任に関しては、世間から賛否の渦が生ずることとなった。
 嘉禎3年(1237年)には参議を辞職。以後没年まで大蔵卿と勘解由長官を兼任。仁治元年(1240年)11月には正二位に叙せられる。寛元4年(1246年)3月28日に薨去。享年89。

高辻継長 高辻長直

 紀伝道菅原氏出身の公家には珍しく、明経道中原氏の中原康富を師として仰いだ。正長2年(1429年)の釈奠に講師として参列している。その後、文章博士や少納言を経て、宝徳3年(1451年)5月25日に従三位になり、翌年、左大弁に任じられる。康正元年(1455年)に参議に任じられ、同年に後花園天皇の侍読になる。長禄3年(1459年)に従二位権中納言になり、文正元年(1466年)1月6日に正二位に叙せられ、文明2年(1470年)11月7日に侍読の功によって権大納言に任ぜられた。文明7年(1475年)に滞在先の加賀国にて死去。

 

 文明17年(1485年)に従三位に叙され、長享2年(1488年)に参議に任ぜられる。延徳元年(1489年)には式部大輔を兼ねて、北野の長者となった。33年間にわたって氏長者の地位にあったが、東坊城和長は、延徳4年(1492年)に長直が権中納言になった際に、彼が「芸無才」にもかかわらず長者の地位に就けたことで以後昇進を遂げていくことに怒りを表している。更に永正3年(1506年)に危篤状態となった長直が権大納言に任ぜられたのも彼自身の功績ではなく、死の間際の父親を昇進させてほしいと言う子・章長への同情と章長自身および五条為学の功績によるもので、長直自身の功績は考慮されなかった(なお、その後、長直は奇跡的に回復している)。
 とはいえ、同族の唐橋在数が九条政基・尚経父子に殺害された時には、一族を率いて政基父子を朝廷に告発した。また、孤児同然となった五条為学を養育して五条家を存続させるなど、氏長者としての役割を果たした。
 また、自らの才能を認識していたためか、子・章長と五条為学を東坊城和長の門下としている。永正8年(1511年)に正二位に叙せられ、大永2年(1522年)薨去。享年72。

高辻章長 高辻長雅

 長享2年(1488年)に叙爵、若い頃は五条為学と共に東坊城和長に学ぶ。延徳2年(1490年)に少納言に任ぜられ、明応3年(1494年)8月には文章博士となる。文亀3年(1503年)12月29日に正四位下に叙せられ、永正3年(1506年)12月には東坊城和長と共に侍読に任ぜられた。翌年従三位に叙せられ、永正6年(1509年)10月11日には参議に任ぜられた。だが、この頃になると、この時代の公卿の例に漏れず経済的苦境に陥り、当時の高辻家の家格ではそれ以上の昇進は困難とみなされたこともあり、朝倉貞景・孝景父子を頼って3度にわたって越前国に下向する。在洛中の永正12年(1515年)12月18日には権中納言、越前滞在中の永正15年(1518年)1月6日には従二位に叙せられている。そして、永正18年(1521年)5月18日に権中納言を辞任すると、5日後に3度目の越前下向を行い2度と京都の地を踏むことなく、大永5年(1525年)に現地にて57歳で客死した。
 若い頃から才能に優れ、16歳で近衛家の月次和漢会の執筆役を務め、近衛政家から「器用の者」として高く評価され、長じてからは勤勉な人物として知られて章長が父・長直の昇進を申請した際には章長自身の勤勉さが評価されて認められたこともあった。また、天皇の侍読のみならず、伏見宮や近衛家・三条西家など有名な公家の邸宅にて講義を行った。また、蘇軾の詩をこよなく愛した。そのため、その死は多くの人々から惜しまれ、鷲尾隆康は「勤学雖有其誉、堪忍依不事行、数年寓彼国。不幸短命可惜可哀」と記し、勤勉で誉れ高かった章長が経済的事情で立ち行かなくなり地方に下って若くして亡くなったとしてその死を嘆き、天文年間に編纂された『天文雑説』でも「近代の儒才にて、天性うるはしき人なり」と評価された。その後、没後30年余りを経た弘治2年(1556年)11月27日になって権大納言が追贈されている。

 永正18年(1521年)、7歳で元服して文章得業生になり、4月に従五位下侍従に任ぜられる。11歳で父を失うが、同族の五条為学の庇護を受けた。
 享禄5年(1532年)7月、大内記・文章博士になり、翌天文元年(1533年)には少納言に任じられた。天文12年(1543年)、東坊城和長が文明14年(1482年)に著した『桂蘂記』を補足している。天文16年(1547年)2月24日、従三位左大弁に任ぜられ、翌天文17年(1548年)3月23日には参議に任ぜられた。天文20年(1551年)3月27日には大学頭を兼ね、天文24年(1555年)2月2日に41歳で権中納言に任ぜられた。
 永禄2年(1559年)1月6日、正二位に叙せられ、11月10日には兼任していた文章博士を辞任して式部大輔に任ぜられる。永禄5年(1563年)11月、権中納言を辞任する(式部大輔は留任)が、翌年11月に五条為康の急死を受けて北野の長者となった。
 天正8年(1580年)1月20日、権大納言に任ぜられるが、僅か8ヶ月後の9月10日に66歳で急死した。
 元亀・天正の両元号の勘進者、後に14代征夷大将軍となる義栄の勧進者として知られている。
 なお、子供に恵まれず、五条為康の子・貞長(後の五条為経)を養子としていたが、為康の死によって五条家が断絶したことにより実家に戻って相続した。その後、長雅は後継者を決めることなく没したため、高辻家は五条為経の子・遂長が相続するまで一時断絶することになる。

高辻為経
 高辻長雅の養子となっていたが、実父の為康の死によって五条家が断絶したことにより実家に戻って相続した。その後、長雅は後継者を決めることなく没したため、高辻家は五条為経の子・遂長が相続するまで一時断絶することになる。