SW03:菅原道真 | 土師身臣 ― 菅原古人 ― 菅原道真 ― 高辻是綱 | SW04:高辻是綱 |
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高辻是綱 | 高辻為長 |
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菅原氏長者。高辻家の祖。文章得業生を経て、白河院政期にかけて大学頭,文章博士などを歴任。この間、武蔵守,常陸介などの受領も兼ねた。位階は正四位下に至る。 |
元暦2年(1185年)に秀才、次いで文治3年(1187年)に献策。同年従五位下に叙爵。これ以降、五摂家のひとつ九条家の家司として仕えることとなり、その間、九条家の子弟に対して家業である紀伝道(文章道)の教育にも当たる。以後、官位は兵部少輔,大内記,式部少輔等を経て、元久元年(1204年)には菅原氏歴代が補任される文章博士に昇進。同年、土御門天皇の侍読となり、以降順徳・後堀河・四条・後嵯峨の5代の天皇に亘り侍読を務める。 |
高辻継長 | 高辻長直 |
紀伝道菅原氏出身の公家には珍しく、明経道中原氏の中原康富を師として仰いだ。正長2年(1429年)の釈奠に講師として参列している。その後、文章博士や少納言を経て、宝徳3年(1451年)5月25日に従三位になり、翌年、左大弁に任じられる。康正元年(1455年)に参議に任じられ、同年に後花園天皇の侍読になる。長禄3年(1459年)に従二位権中納言になり、文正元年(1466年)1月6日に正二位に叙せられ、文明2年(1470年)11月7日に侍読の功によって権大納言に任ぜられた。文明7年(1475年)に滞在先の加賀国にて死去。
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文明17年(1485年)に従三位に叙され、長享2年(1488年)に参議に任ぜられる。延徳元年(1489年)には式部大輔を兼ねて、北野の長者となった。33年間にわたって氏長者の地位にあったが、東坊城和長は、延徳4年(1492年)に長直が権中納言になった際に、彼が「芸無才」にもかかわらず長者の地位に就けたことで以後昇進を遂げていくことに怒りを表している。更に永正3年(1506年)に危篤状態となった長直が権大納言に任ぜられたのも彼自身の功績ではなく、死の間際の父親を昇進させてほしいと言う子・章長への同情と章長自身および五条為学の功績によるもので、長直自身の功績は考慮されなかった(なお、その後、長直は奇跡的に回復している)。 |
高辻章長 | 高辻長雅 |
長享2年(1488年)に叙爵、若い頃は五条為学と共に東坊城和長に学ぶ。延徳2年(1490年)に少納言に任ぜられ、明応3年(1494年)8月には文章博士となる。文亀3年(1503年)12月29日に正四位下に叙せられ、永正3年(1506年)12月には東坊城和長と共に侍読に任ぜられた。翌年従三位に叙せられ、永正6年(1509年)10月11日には参議に任ぜられた。だが、この頃になると、この時代の公卿の例に漏れず経済的苦境に陥り、当時の高辻家の家格ではそれ以上の昇進は困難とみなされたこともあり、朝倉貞景・孝景父子を頼って3度にわたって越前国に下向する。在洛中の永正12年(1515年)12月18日には権中納言、越前滞在中の永正15年(1518年)1月6日には従二位に叙せられている。そして、永正18年(1521年)5月18日に権中納言を辞任すると、5日後に3度目の越前下向を行い2度と京都の地を踏むことなく、大永5年(1525年)に現地にて57歳で客死した。 |
永正18年(1521年)、7歳で元服して文章得業生になり、4月に従五位下侍従に任ぜられる。11歳で父を失うが、同族の五条為学の庇護を受けた。 |
高辻為経 | |
高辻長雅の養子となっていたが、実父の為康の死によって五条家が断絶したことにより実家に戻って相続した。その後、長雅は後継者を決めることなく没したため、高辻家は五条為経の子・遂長が相続するまで一時断絶することになる。 |