<神皇系氏族>天孫系

SW01:菅原古人  土師身臣 ― 菅原古人 ― 菅原道真 SW03:菅原道真


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菅原道真 菅原高視

 喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説,菅原院天満宮神社(京都市上京区)説など諸説あるが、定かではないとされている。
 道真は幼少より詩歌に才を見せ、貞観4年(862年)18歳で文章生となる。貞観9年(867年)には文章生のうち2名が選ばれる文章得業生となり、正六位下・下野権少掾に叙任される。貞観12年(870年)方略試に中の上で合格し位階を進め、正六位上となった。玄蕃助,少内記を経て、貞観16年(874年)従五位下に叙爵し、兵部少輔ついで民部少輔に任ぜられた。元慶元年(877年)式部少輔次いで世職である文章博士を兼任する。
 元慶4年(880年)父・菅原是善の没後は、祖父・菅原清公以来の私塾である菅家廊下を主宰、朝廷における文人社会の中心的な存在となった。仁和2年(886年)讃岐守(讃岐国司)を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。仁和4年(888年)阿衡事件に際して、入京して藤原基経に意見書を寄せて諌めたことにより、事件を収める。寛平2年(890年)任地より帰京した。これまでは家格に応じた官職についていたが、宇多天皇の信任を受けて、以後要職を歴任することとなる。皇室の外戚として権勢を振るっていた関白・藤原基経亡き後の藤原氏にまだ有力者がいなかったこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。
 寛平3年(891年)蔵人頭に補任し、式部少輔と左中弁を兼務。翌年従四位下に叙せられ、寛平5年(893年)には参議兼式部大輔(まもなく左大弁を兼務)に任ぜられ、公卿に列した。
 寛平6年(894年)遣唐大使に任ぜられるが、唐の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議により遣唐使は停止される。なお、延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史はここで幕を下ろすこととなった。寛平7年(895年)参議在任2年半にして、先任者3名(藤原国経,藤原有実,源直)を越えて従三位・権中納言に叙任。またこの間、寛平8年(896年)長女・衍子を宇多天皇の女御とし、寛平9年(897年)には3女・寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とするなど、皇族との間で姻戚関係の強化も進めている。
 宇多朝末にかけて、左大臣の源融や藤原良世,宇多天皇の元で太政官を統率する一方で道真とも親交があった右大臣の源能有ら大官が相次いで没した後、寛平9年(897年)6月に藤原時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政官のトップに並ぶ体制となる。7月に入ると宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。
 醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反撥が表面化するようになった。また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。
 昌泰2年(899年)右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べた。しかし、儒家としての家格を超えて大臣に登るという道真の破格の昇進に対して妬む廷臣も多く、翌昌泰3年(900年)には文章博士・三善清行が道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣告され、罪を得て大宰員外帥に左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。また、長男の高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて、道真が巻き込まれたとする説まで諸説ある。
 左遷後は大宰府浄妙院で謹慎していたが、延喜3年(903年)2月25日に大宰府で薨去し安楽寺に葬られた。享年59。
 道真が京の都を去る時に詠んだ「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。  

 寛平5年(893年)に文章得業生となり、翌年には三河掾に任官。その後、大学頭兼右少弁となる。しかしながら、昌泰の変により父に連座して延喜元年(901年)土佐介に左遷される。
 5年後に帰京して大学頭に復して従五位上に叙せられるが、以後は振るわず38歳の若さで病死した。

菅原雅規 菅原資忠

 菅原道真の孫。父・高視も同様に左遷され、自身も尾張国に配流されたため、昇進の望みは薄かった。文章博士となり、のちに左少弁を務めたといわれる。また、応和元年(961年)に因幡守をはじめ、淡路守や和泉守などの諸国の国司を務めたとされる。天元2年(979年)没。享年61。
 天暦2年(948年)久松寺を開基。末裔には久松氏がいるとされる。 

 天暦10年(956年)以前に大学に入り、秀才に及第する。康保5年(968年)6月19日に課試の宣旨を下されている。この当時の官位は文章得業生、正六位上・美濃権少掾。
 文章博士,右中弁,大学頭,内記、勘解由次官を歴任。和泉・周防・因幡・淡路国司務め、位階は従四位下に昇った。寛和元年(985年)に、伊勢斎宮・規子内親王の奉迎使に任ぜられる。永祚元年(989年)、右中弁で頓死。享年54。 

菅原孝標 菅原孝標女

 『更級日記』の著者である菅原孝標女の実父。因幡掾在任中の正暦4年(993年)東宮(居貞親王)昇殿を聴される。蔵人右衛門尉を経て、長保3年(1001年)従五位下に叙爵。その後は、寛仁元年(1017年)上総介、長元5年(1032年)正五位下・常陸介に叙任されるなど、後一条朝にて受領を歴任。常陸介として赴任した4年後の長元9年(1036年)に帰京した。その後再び、高齢ながらどこかの国司に任命されたらしい。高齢で任国へ赴く父との今生の別れの箇所は、『更級日記』の中でも有名なシーンの一つであるが、実際には無事に生きて戻ってきている。
 学問の家に生まれながら、大学頭や文章博士などの学者としての官職には任官しなかったことや、『更級日記』における人物像などから、かつては凡庸な人物とみなされていた。しかし、長保2年(1000年)から長保3年(1001年)にかけての六位蔵人時代の活動の様子が、上司である蔵人頭・藤原行成の日記『権記』に頻出することや、万寿4年(1027年)右大臣・藤原実資の娘である千古の家司に任ぜられていることから、これら経歴を踏まえた人物像の再評価もなされている。

 10歳頃から50歳頃までの人生を回想した『更級日記』の作者。更級日記御物本奥書から、『浜松中納言物語』『夜半の寝覚』の作者ではないかとも言われる。
 母(藤原倫寧の娘)の異母姉(伯母)は『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母。兄・定義、甥・在良は学者である。彼女は寛弘5年(1008年)に出生。寛仁4年(1020年)、上総国における父の上総介としての任期が終了したため一家で帰国(上京)し、3ヶ月ほどの旅程を経てようやく京へと入った。帰国するころ彼女は13歳で、更級日記は上総国に居る頃から始まっている。当時、物語に対する熱が冷めず、翌年に上京した伯母から『源氏物語』五十余巻などを貰い、昼夜を問わず読み耽った。夢に僧が出てきて(女人成仏が説かれている)「法華経・第五巻を早く習え」と言うが、心にも掛けず物語を読み耽ったことを、後年、更級日記の中で、「まづ いとはかなく あさまし」と批評している。万寿元年(1024年)には姉が二女を残して亡くなり、なお物語に耽読した。しかし、この頃から「信心せよ」との啓示を夢に見るようになる。
 祐子内親王に仕え、長久元年(1040年)頃、橘俊通と結婚。寛徳2年(1045年)に一男(仲俊)と二女をもうけたが、俊通は康平元年(1058年)に死去し、子供達も独立して彼女は孤独になった。このあたりで更級日記は終わっている。

菅原文時

 文章博士から内記,右中弁,式部大輔などを歴任。十余年の内記の時代に諸国に祀られている神祇名号について訛りや位階の誤りを正すなどの業績がある。弁官に任じられてからは、詔命に従い『叙位略例』と目録の撰纂、『撰国史所』などの仕事に携わる。 954年(天暦8年)村上天皇が諸臣に政治に関し意見を求めた際、957年(天徳元年)意見封事三箇条を提出している。981年(天元4年)1月に従三位に叙せられた。同年9月、83歳で薨去。
 『袋草紙』には、文時が不出来と考えていた詩文の草案を、門弟の慶滋保胤が逆に絶賛した記事が載せられている。『本朝文粋』のほか『扶桑集』『和漢朗詠集』に作品が残されている。また、歌人として『拾遺和歌集』に1首が入首している。