SW01:菅原古人 | 土師身臣 ― 菅原古人 ― 菅原道真 | SW03:菅原道真 |
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菅原道真 | 菅原高視 |
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喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説,菅原院天満宮神社(京都市上京区)説など諸説あるが、定かではないとされている。 |
寛平5年(893年)に文章得業生となり、翌年には三河掾に任官。その後、大学頭兼右少弁となる。しかしながら、昌泰の変により父に連座して延喜元年(901年)土佐介に左遷される。 |
菅原雅規 | 菅原資忠 |
菅原道真の孫。父・高視も同様に左遷され、自身も尾張国に配流されたため、昇進の望みは薄かった。文章博士となり、のちに左少弁を務めたといわれる。また、応和元年(961年)に因幡守をはじめ、淡路守や和泉守などの諸国の国司を務めたとされる。天元2年(979年)没。享年61。 |
天暦10年(956年)以前に大学に入り、秀才に及第する。康保5年(968年)6月19日に課試の宣旨を下されている。この当時の官位は文章得業生、正六位上・美濃権少掾。 |
菅原孝標 | 菅原孝標女 |
『更級日記』の著者である菅原孝標女の実父。因幡掾在任中の正暦4年(993年)東宮(居貞親王)昇殿を聴される。蔵人右衛門尉を経て、長保3年(1001年)従五位下に叙爵。その後は、寛仁元年(1017年)上総介、長元5年(1032年)正五位下・常陸介に叙任されるなど、後一条朝にて受領を歴任。常陸介として赴任した4年後の長元9年(1036年)に帰京した。その後再び、高齢ながらどこかの国司に任命されたらしい。高齢で任国へ赴く父との今生の別れの箇所は、『更級日記』の中でも有名なシーンの一つであるが、実際には無事に生きて戻ってきている。 |
10歳頃から50歳頃までの人生を回想した『更級日記』の作者。更級日記御物本奥書から、『浜松中納言物語』『夜半の寝覚』の作者ではないかとも言われる。 |
菅原文時 | |
文章博士から内記,右中弁,式部大輔などを歴任。十余年の内記の時代に諸国に祀られている神祇名号について訛りや位階の誤りを正すなどの業績がある。弁官に任じられてからは、詔命に従い『叙位略例』と目録の撰纂、『撰国史所』などの仕事に携わる。 954年(天暦8年)村上天皇が諸臣に政治に関し意見を求めた際、957年(天徳元年)意見封事三箇条を提出している。981年(天元4年)1月に従三位に叙せられた。同年9月、83歳で薨去。 |