<神皇系氏族>天孫系

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菅原淳茂 菅原淳祐

 早くから大学寮に入り、秀才に及第,文章得業生に補される。昌泰4年(901年)父・道真が失脚し大宰府に流された折に、他の兄弟たちと共に左遷された。淳茂は播磨国に遷されたという。当時の官位は正六位下・文章得業生であった。
 罪を赦され帰京後の延喜8年(908年)散位の淳茂は、式部少丞・紀淑光と共に渤海掌客使を務める。その後、延喜11年(911年)以前には式部少丞に任ぜられ、翌延喜12年(912年)内宴にて詩を詠んだ功で従五位下に叙爵する。延喜21年(921年)の正月に行われた除目では右少弁に任ぜられた。後に右中弁に転じる。
 その他、兵部丞,大学頭,文章博士,式部権大輔を歴任。また、侍読も務めたという。延長4年(926年)正月11日卒去。享年59。
 漢詩を得意とし、『本朝文粋』『扶桑集』などに漢詩が残っている。また、延喜19年(919年)の文章博士在任中には漢書を講じている。
 現在の神奈川県横浜市港南区上永谷には、淳茂が配流され一時住んだとされる伝承が残る。父譲りの才を持ち、「菅秀才」と呼ばれた淳茂は相模国鎌倉郡永谷郷に居館を構え、同地に道真が己の姿を鏡に映しながら自分で刻んだ三つの木像のうちの一体を伝えたとされる。朝夕に上永谷の天神山に登り、遥か西の道真に朝夕の挨拶をしたと伝えられている。また同山には敦茂が愛用した筆や髪の毛を埋めたとも伝えられる「菅秀塚の碑」があり、不敬なことをすると祟りがあるとされている。
 のちに同地を領した宅間上杉家の当主上杉乗国の夢枕に、この道真像が霊夢となって現れたため、明応2年(1493年)2月に乗国がこの像を祀った社を建てた。これが永谷天満宮の始まりとされている。
 また、『美濃部天満宮社記』によると、淳茂が菅原氏の荘園であった美濃部郷梅ヶ畑に預けられたと伝わる。923年(延長元年)5月、淳茂は赦免されて帰洛するが、子の直茂は美濃部に残り、小字武島に屋敷を建て、地名の美濃部に姓を変えて在地領主となったとされている。

 般若寺の観賢に師事して出家・受戒し、925年(延長3年)に伝法灌頂を受けた。真言宗小野流の法を継いだが、足に障害があり病弱であることを理由に醍醐寺寺主就任を辞退する。その後、石山寺普賢院に隠棲した。普賢院では多くの書物を著し、真言密教の事相の発展に寄与した。
 延喜21年(921年)11月、師・観賢が醍醐天皇の勅命により高野山奥の院御廟を訪れたとき、共に御廟内に入り弘法大師(空海)の膝に触れたといわれる。その際、妙香の薫りが手に移り、一生消えることがなかった。またそれにより、淳祐が書写した経典にも同様の薫りが移った。これを「薫の聖教」という。