F849:斎藤基永 | 藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 斎藤伊傳 ― 瀧口頼基 ― 斎藤基永 ― 前田季基 | F850:前田季基 |
リンク | F851・MD01 |
前田季基 | 前田玄以 |
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季基の代に美濃国守護代斉藤氏庶家として、同国前田村に居住し前田氏を名乗ったとされる。 |
天文8年(1539年)、前田基光の子として美濃に生まれる。はじめは尾張小松原寺の僧侶であったが、後に比叡山延暦寺に入った。しかし織田信長に招聘されて臣下に加わり、後に信長の命令でその嫡男・織田信忠付の家臣となる。天正10年(1582年)の本能寺の変に際しては、信忠と共に二条御所にあったが、信忠の命で嫡男の三法師を連れて京都から脱出、美濃岐阜城、さらに尾張清洲城に逃れた。 |
前田秀以 | 前田茂勝 |
父が豊臣秀吉に仕えると共に秀吉に仕え、羽柴姓を与えられた。父が京都所司代としてキリシタンを弾圧・保護することが多かったため、その影響からキリシタンとなり、文禄4年(1595年)には正式に洗礼を受けてパウロという洗礼名を賜った。 |
前田玄以の3男(次男とも)として誕生した。文禄4年(1595年)にキリシタンとなる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して、東軍方の細川幽斎が守る丹後国田辺城を攻め、開城の使者も務めた。その後、関ヶ原の戦いは西軍の敗北で終わるが、父・玄以が持つ朝廷とのパイプなどを考慮されて、戦後、父の所領・丹波亀山藩は安堵された。 |
前田正勝 | |
慶長5年(1600年)、徳川家康の会津征伐に参加し、小山評定ののち、父・玄以が大坂城に在城していたために関ヶ原の戦いでは江戸に留め置かれた。慶長7年(1602年)、丹波国桑田,船井両郡において1000石を賜る。慶長18年(1613年)、33歳で死去し、子の正信が跡を継いだ。 |