<藤原氏>北家 利仁流

F850:前田季基  藤原鎌足 ― 藤原魚名 ― 藤原利仁 ― 斎藤伊傳 ― 竹田頼基 ― 斎藤基永 ― 前田季基 ― 前田種利 F851:前田種利

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前田長定 前田長種

 前田氏は尾張国海東郡の土豪であり、代々の当主は与十郎を称した。与十郎家は、前田城,下之一色城を有し、前田利家の本家筋にあたるといわれる。天文13年(1544年)には荒子城も有しており、林秀貞,林通具の与力として織田家に仕えた。
 弘治2年(1556年)、稲生の戦いにおいて林通具が討死すると、織田信長により荒子城一帯の領地は没収され前田利春に与えられた。前田長定は織田家重臣・佐久間信盛に仕え、本能寺の変ののちは、信盛の子・佐久間信栄のもと織田信雄に仕えた。
 天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いでは、滝川一益の誘いにより羽柴秀吉陣営に寝返り、同年6月16日、蟹江城から佐久間信辰を追放、滝川の兵と共に蟹江城に籠城した。しかし織田信雄・徳川家康の連合軍に攻められ開城した(蟹江城合戦)。翌7月3日、妻子と共に船で城から退去したところ、徳川家康の命により妻子共々殺害された。本拠の下之一色城にいた長種は降伏し、加賀の前田家を頼り落ち延びた。

 前田氏(与十郎家)は系図上では美濃前田氏の同族。代々尾張国海東郡の前田城,下之一色城を有し、加賀前田家の本家筋にあたるといわれる。
 前田与十郎家は織田信長の家臣で本能寺の変後に信長の次男・信雄に仕えた。天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いで滝川一益の誘いで羽柴秀吉陣営に寝返るが、同年の蟹江城合戦で織田信雄・徳川家康の連合軍に敗れ、父・長定は戦死し、叔父・前田定利も斬られた。本拠・下之一色城にいた長種は降伏し、前田利家を頼り家臣となり能登国七尾城を守備する。その後、越中国守山城代となり、幼少時の加賀藩3代藩主・前田利常を養育した。富山城代を経て、慶長10年(1605年)、加賀国小松城代となり、2万石を給された。

前田直知 前田直正

 利長に仕え知行5000石、後に父の禄を合わせて1万石、人持組頭となる。小松城代を務め、大坂冬の陣,大坂夏の陣に出陣した。病のため、隠居して家督を嫡男・直正に譲り、京都で療養する。3男・直成は1500石の分知を受け分家した。寛永7年(1630年)9月23日没。享年45。
 正室のおなあ(牧村利貞の娘)は、姑のお幸(前田利家長女)との折り合いが悪く離縁された。後に、蒲生家重臣・町野幸和に再嫁、出家して祖心尼と名乗り、江戸城大奥で春日局の側近として仕えた。幸和との間に儲けた一人娘が産んだお振の方は将軍・徳川家光の側室となり、千代姫の生母となった。直正の3男・直成は母の再嫁先である町野家に養子入りするも、後に前田家に戻った。直成の子・牧村直良は、祖母の祖心尼の名跡を継いで幕府の旗本となり、500石を与えられた。

 父が病で隠居し6500石の知行を相続。弟・直成が母の再嫁先の町野家の養子となったため、その知行1500石も賜る。寛永7年(1630年)に父・直知、寛永8年(1631年)祖父・長種が死去し家督を相続。弟の恒知に3000石分知し、叔母婿の長政に1000石を分知。知行1万7000石となる。人持組頭となり、祖父・長種,父・直知と同じく小松城代を務めた。寛永8年(1631年)閏10月17日江戸で急死。
 藩主・前田利常は、兄・利政の娘を養女として直正に嫁がせようとしたが、過分に過ぎると辞退している。

前田孝貞 前田孝行
 寛永8年(1631年)父の死去により、4歳で家督と1万7000石の知行を相続。幼いため、藩主・前田利常の命で叔父の直成が家政を代行した。寛永20年(1643年)叔父・直成に7000石を分知して禄高1万石となる。正保2年(1645年)直成が致仕すると、その禄7000石を賜る。慶安中2000石加増。寛文9年(1669年)2000石加増され禄高2万1000石となる。家老,人持組頭,金沢城代となる。貞享3年(1686年)大年寄(大老)となる。天和3年(1683年)小松城代を兼ねる。元禄4年(1691年)12月従五位下佐渡守に叙任。翌年正月京都所司代・小笠原長重も佐渡守であることから、駿河守に遷任。元禄14年(1701年)隠居して家督を孝行に譲り、隠居料3000石を賜る。宝永4年(1707年)8月19日没。

 寛文10年(1670年)8歳で藩主・綱紀に御目見。天和3年(1683年)21歳の時に新知3000石を賜り出仕した。元禄10年(1697年)父・孝貞の隠居により家督と2万1000石の知行を相続。若年寄,年寄見習,大年寄(大老),人持組頭を歴任。宝永元年(1704年)従五位下美作守に叙任。正徳元年(1711年)公儀御用(宗門方御触),金沢城代を兼任。享保6年(1721年)9月14日没。享年59。
 家督は嫡男孝資が相続し、末男の孝覩は2500石の分知を受け分家した。正徳4年(1714年)娘の誠は藩主・綱紀の養女として三条西公福に嫁いだ。公福は享保16年(1731年)武家伝奏を務め、元文5年(1740年)には大納言に叙された。

前田孝資 前田孝昌

 宝永4年(1707年)藩主・綱紀の娘・豊姫と結婚。正徳6年(1716年)3月15日。藩主・綱紀が孝資の正室豊姫を訪ねる。享保6年(1721年)父の死去により家督と知行1万8500石を相続。享保20年(1735年)従五位下対馬守に叙任。延享2年(1745年)8月、藩主・前田宗辰の家督相続の御礼言上の際に江戸城で将軍・徳川吉宗に拝謁する。延享4年(1747年)2月、藩主・前田重煕の家督相続の御礼言上の際に江戸城で将軍・徳川家重に拝謁する。宝暦元年(1751年)公儀御用(宗門方御触)。宝暦3年(1753年)3月9日没。享年71。
 正室の豊姫は、藩主・前田綱紀の娘で、貞享4年(1687年)孝資の祖父の加賀藩大年寄(大老)・前田孝貞の屋敷で生まれ、その養育を受けた。成長して孝資に嫁ぎ、享保3年(1718年)10月5日32歳で没している。

 宝暦3年(1753年)父の死去により6月4日、家督と1万8500石の知行を相続する。年寄として藩主前田重教,治脩に仕え、人持組頭,城方御用,御法事奉行等を歴任。
 宝暦3年(1753年)藩主・前田重靖の家督相続の御礼言上の際に、江戸城で将軍徳川家重に拝謁する。宝暦5年(1755年〉従五位下駿河守に叙任。宝暦13年(1763年)初代藩主前田利長の百五十回忌法要の御法事奉行を務める。
 明和6年(1766年)嫡男・与十郎孝友が藩主・重教の娘・邦姫と婚約する。明和9年(1772年)前田利長正室・玉泉院の百五十回忌法要で藩主名代を務める。安永6年(1777年)9月16日没、55歳。

前田孝友 前田孝本
 明和6年(1766年)藩主・前田重教の娘・邦姫と婚約する。明和8年(1771年)11月婚約者の邦姫死去。安永6年(1777年)11月、父・孝昌の死去により家督と知行1万8500石を相続。年寄,金沢城代として藩主治脩,斉広に仕えた。寛政4年(1792年)学校惣奉行となり藩校明倫堂を創設する。享和2年(1802年)11月、藩財政の最高責任者である御勝手方御用主附となる。享和3年(1803年)伊勢守に叙任。文化元年(1804年)年寄職を免じられる。文化12年(1815年)4月玉龍寺にて前田長種室春桂院(前田利家長女・幸姫)の二百回忌を行う。文政元年(1818年)8月解任された奥村栄実,本多政礼に代わって御勝手方御用主附となる。文政4年(1821年)隠居して家督を嫡男孝本に譲る。天保3年(1832年)没、74歳。  文政4年(1821年)父の隠居により家督と1万8500石の知行を相続。年寄として藩主前田斉広,斉泰に仕えた。天保2年(1831年)美作守叙任。天保4年(1833年)11月、前田治脩の二十五回忌法要で藩主名代を務める。天保13年(1842年)伊藤新之丞(前田本文)に500石を分知し、前田氏を名乗らせ前田直成の家名を相続させる。直成は2代前田直知の3男で、子の直良は祖母・牧野氏祖心尼の養子として幕府旗本となったため跡が絶えていた。天保14年(1843年)に執政・奥村栄実が死去すると、年寄・本多政和とともに藩政を主導するが、嘉永2年(1849年)に藩政改革派・黒羽織党の領袖・長連弘に政権を譲った。安政3年(1856年)江戸藩邸で死去。享年49。家督は、嫡男孝中が相続するも翌年19歳で早世。分家の前田孝備の子・孝敬が養子となって家督を継いだ。
前田孝敬

 弘化4年(1847年〉11月14日、加賀藩家老・前田外記孝備の嫡男として生まれる。安政4年(1857年)本家当主・前田孝中の死去により、その末期養子として、家督と知行1万8000石を相続。慶応4年(1868年)、北越戦争の際に加賀藩の陣地に梅田弾次郎と変名を使って兵の督励に現れたが、陣地に長岡藩側からの銃撃があると慌てて逃げ去った。明治維新後、名を豊と改める。
 明治21年(1888年)1月5日死去。享年42。