HJ01:土師身臣 | 土師身臣 ― 菅原古人 | SW01:菅原古人 |
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菅原古人 | 菅原清公 |
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光仁朝末の宝亀10年(779年)外従五位下に叙せられる。 |
若い頃から経書と史書を学び、延暦3年(784年)詔により皇太子・早良親王に付き従い、延暦8年(789年)弱冠20歳で奉試に及第して文章生に補せられる。学業に優れて文章得業生に推挙されて美濃少掾に任官し、延暦17年(798年)対策に及第して大学少允に任ぜられた。 |
菅原道長 | 菅原善主 |
菅原古人の子と思われる。官位は従五位下・山城介。淳仁朝の天平宝字5年(761年)摂津少属の官職を帯びていた記録がある。 |
天長2年(825年)に23歳にして文章生に補せられる。承和年間の初頭に弾正少忠に任ぜられた後、承和3年(836年)遣唐使判官に任ぜられ、播磨権大掾を兼ねる。7月に使節団は4隻の遣唐使船に分乗して(善主は第3船に乗船)九州から出航するがまもなく4隻とも漂流して肥前国へ引き返す。承和4年(837年)の二度目の渡航も失敗し、承和5年(838年)三度目の渡航でようやく渡唐に成功し長安へ入京する。翌承和6年(839年)8月に肥前国に帰着し、9月に使節に対する叙位が行われて善主は従五位下に叙爵された。 |
菅原是善 | 菅原為守 |
幼い頃から聡明で才知があり、弘仁年間の末に11歳にしてに召されて殿上に侍し、常に嵯峨天皇の前で書を読み詩を賦したという。 |
道武以来代々菅公社(菅原道真を祀った神社)の宮司であり、為守も宮司を務めた。ある日、夢枕に菅原道真が現れ、自らを谷保に祀るよう命じた。これを霊夢と考えた為守は、天神島にあった菅公社を谷保に遷座。これが現在の谷保天満宮である。津戸が淵という沼に巣くう大蛇を一刀のもとに斬って捨てたとの伝説も残っている。 |