<神皇系氏族>天孫系

HJ01:土師身臣  土師身臣 ― 菅原古人 SW01:菅原古人

リンク SW02SW03
菅原古人 菅原清公

 光仁朝末の宝亀10年(779年)外従五位下に叙せられる。
 天応元年(781年)桓武天皇の即位後に従五位下・遠江介に叙任される。まもなく、古人や道長ら一族15名が、居住地である大和国添下郡菅原邑にちなんで菅原姓(菅原宿祢)への改姓を願い出て、これを許される。
 「祖業を顧みると、吉凶相半ばして、天皇の葬礼においては葬儀を掌り、祭の日には祭儀を預かり、このように奉仕することはまことに世間の習慣にも合っていた。しかし、現在はそうではなく専ら葬儀のみ預かっていて、祖業を深く考慮すると本意ではない。そこで居住地にちなんで土師から菅原姓へ改姓したい」と願い出た。
 死後の延暦4年(785年)侍読としての功労により、4人の子息に対して学業に努めさせるため衣服と食糧が支給されている。
 儒学者として高名で、余人で並ぶ者はなかった。一方で、家に財産の余裕がなく、子息は窮乏に苦しんだという。

 若い頃から経書と史書を学び、延暦3年(784年)詔により皇太子・早良親王に付き従い、延暦8年(789年)弱冠20歳で奉試に及第して文章生に補せられる。学業に優れて文章得業生に推挙されて美濃少掾に任官し、延暦17年(798年)対策に及第して大学少允に任ぜられた。
 延暦21年(802年)遣唐判官に任ぜられ、近江権掾を兼ねる。延暦23年(804年)最澄らとともに第二船に乗船して唐に渡り、遣唐大使・藤原葛野麻呂とともに皇帝・徳宗に謁見し、その引き立てを得た。延暦24年(805年)帰国して従五位下・大学助に叙任される。延暦25年(806年)尾張介に遷り、平城朝から嵯峨朝初頭にかけて地方官を務める。国司として後漢の劉寛のように刑罰を用いない統治を行ったという。
 弘仁3年(812年)地方官の任期を終えて帰京すると、嵯峨朝後半にかけて順調に昇進した。この間の弘仁9年(818年)には詔により、朝廷における儀式や衣服が唐風に改められ、五位以上の位記が中国風に改められ、諸宮殿・院堂門閣に新たな扁額が製作されたが、全てに清公が関与したという。清公が右京大夫の官職にあった際、嵯峨天皇に京職大夫の相当位を問われ、正五位相当であると答えたところ、直ちに京職大夫の相当位が従四位に改められた。
 淳和朝に入ると、天長元年(824年)播磨権守に左遷されるが、時の人はこれを憂いた。翌天長2年(825年)には国の元老である清公を平安京から遠く離れた地に配置するのは適切でないと、公卿らが奏上したため、清公は再び入京して文章博士を兼ねた。仁明朝の承和6年(839年)には従三位に叙せられて公卿に列すが、老いと病により衰え弱り、歩行に難渋するようになっていたことから、勅により参内の際に建礼門前の大庭にある梨の樹の下まで牛車に乗ったまま来ることを、これまでの学識を認められて特別に許されている。その後、病により参内することもだんだん絶えて、承和9年(842年)10月17日に薨去。享年73。孫の菅原道真が天神として祀られたことから、子の是善とともに天満宮に祀られている。
 具体的な後世に残った事績としては、それまで和風だった人名のつけ方を唐風に改めたことが挙げられる。男子の場合「坂上田村麻呂」の「田村麻呂」のような形式から「菅原道真」の「道真」や「藤原基経」の「基経」といった二文字訓読みか「源融」の「融」や「源信」の「信」など一文字訓読みという形式にし、女性の名前の「〇子」という形式にすることは彼の建言によって導入されたものである。

菅原道長 菅原善主

 菅原古人の子と思われる。官位は従五位下・山城介。淳仁朝の天平宝字5年(761年)摂津少属の官職を帯びていた記録がある。
 天応元年(781年)4月に桓武天皇の即位にともない、和国守・武生鳥守らとともに外従五位下に昇叙している。同年6月、同族の土師古人ら一族15名とともに、居住地の大和国添下郡菅原邑に因んで菅原宿禰に改姓する。延暦9年(790年)12月に秋篠安人とともに宿禰姓から朝臣姓に改姓し、翌延暦10年(790年)正月に秋篠安人とともに内位の従五位下に叙せられている。また、時期は不明ながら山城介を務めた。

 天長2年(825年)に23歳にして文章生に補せられる。承和年間の初頭に弾正少忠に任ぜられた後、承和3年(836年)遣唐使判官に任ぜられ、播磨権大掾を兼ねる。7月に使節団は4隻の遣唐使船に分乗して(善主は第3船に乗船)九州から出航するがまもなく4隻とも漂流して肥前国へ引き返す。承和4年(837年)の二度目の渡航も失敗し、承和5年(838年)三度目の渡航でようやく渡唐に成功し長安へ入京する。翌承和6年(839年)8月に肥前国に帰着し、9月に使節に対する叙位が行われて善主は従五位下に叙爵された。
 承和7年(840年)6月に兵部少輔に任ぜられるが、同年8月に伊勢権介に転じたのちは、一時主税頭を挟むも、伊勢介,越前介と仁明朝の後半は主に地方官を歴任した。
 文徳朝の仁寿2年(852年)6月に勘解由次官として京官に復帰するが、病により同年11月7日 卒去。享年50。

菅原是善 菅原為守

 幼い頃から聡明で才知があり、弘仁年間の末に11歳にしてに召されて殿上に侍し、常に嵯峨天皇の前で書を読み詩を賦したという。
 承和2年(835年)文章得業生となり、承和6年(839年)対策に及第して従六位下から正六位上と三階級の加叙を受ける。大学允/助,大内記を経て、承和11年(844年)従五位下に叙爵。承和12年(845年)文章博士に任ぜられる。のち文章博士を務める傍らで越後介,讃岐権介と地方官を兼ね、皇太子・道康親王の東宮学士にもなった。
 嘉祥3年(850年)道康親王の即位(文徳天皇)に伴い二階級昇進して正五位下に叙せられる。引き続き文章博士を務める一方で、大学頭,左京大夫,加賀権守,美作権守,伊勢守,備前権守を兼ねた。
 清和朝に入ると文章博士に播磨権守を兼ね、貞観2年(860年)には従四位上に昇叙された。のち、弾正大弼,刑部卿,近江権守,伊予権守を経て、貞観12年(870年)式部大輔に任官する。貞観14年(872年)には参議に任じられて公卿に列し、議政官として勘解由長官,刑部卿などを兼任した。貞観15年(873年)正四位下、元慶3年(879年)従三位。元慶4年(880年)8月30日薨去。享年69。
 文徳・清和両天皇の侍読となって『文選』や『漢書』の進講を行ったり、内記として起草した詔勅や願文が多く残されている。都良香らと『日本文徳天皇実録』を撰し、『貞観格式』の編纂にも参画、また自ら『東宮切韻』『銀牓輪律』『集韻律詩』『会昌分類集』などを撰している。家集に『菅相公集』がある。
当代随一の文人として、詩家の宗匠・小野篁あるいは在朝の通儒春澄善縄,大江音人と親交があったという。上卿良吏・儒者詞人の多くを弟子としていた。俗世間の事柄に興味が薄く、世間を忘れたように風月を観賞して詩を吟じた。仏道を崇めて人々を慈しみ、孝行は天に至るほどで、殺生も好まなかった。臨終の際、初冬の梅の季節に自らの法要を営むことのみ一言し、他には何も語らなかったという。

 道武以来代々菅公社(菅原道真を祀った神社)の宮司であり、為守も宮司を務めた。ある日、夢枕に菅原道真が現れ、自らを谷保に祀るよう命じた。これを霊夢と考えた為守は、天神島にあった菅公社を谷保に遷座。これが現在の谷保天満宮である。津戸が淵という沼に巣くう大蛇を一刀のもとに斬って捨てたとの伝説も残っている。
 武士としては鎌倉幕府に仕え、石橋山の合戦その他で活躍。平家没落後、建久六年(1195)2月、頼朝が大軍を従えて上洛した際、為守も参加。公事を終えると法然上人を訪ね、戦場で殺生を重ねた自らの罪を懴悔したという。
 3代将軍・実朝が鶴岡八幡宮で殺されると、かねてから願い出ていた出家を許され、実朝の分骨を譲り受け、念仏堂で菩提を弔って暮らした。仁治4年(1243年)、法然の没年と同じ80歳のとき、それまでの罪科を懺悔して自害。墓は八王子市の大善寺にある。