高辻長雅が後継者を決めることなく没して、一時断絶となっていた高辻家を相続することで再興した。もとは父の五条為経が長雅の養子となり後継者となっていたが、為経の実父・為康の死去を受け、五条家に戻っていた。 |
安政2年(1855年)2月17日、従五位上に叙される。安政4年(1857年)1月25日に正五位下となり、安政5年(1858年)10月28日に少納言に任じられ、12月19日より侍従を兼ねる。安政6年(1859年)4月24日に従四位下となり、万延元年(1860年)12月4日より文章博士を兼ねる。文久2年(1862年)1月5日に従四位上となり、文久3年(1863年)1月22日より大内記を兼ねる。 元治2年(1865年)1月5日に正四位下となり、慶応2年(1866年)4月25日に大内記を辞する。同年8月30日、廷臣二十二卿列参事件に参加し、差控を命じられた。明治元年(1868年)9月14日に従三位となる。 明治2年(1869年)から明治17年(1884年)まで明治天皇の侍従を務める。この間、アメリカで岩倉使節団に随行した。その後、明宮(大正天皇)の御用掛,東宮亮,皇太后宮亮・帝室会計審査官を経て、明治31年(1898年)より東宮侍従長、明治35年(1902年)より宮中顧問官を務めた。大正10年(1921年)6月20日、薨去。享年82。墓所は東京都文京区の吉祥寺。 江戸時代後期、「万延」→「文久」と、その次の「文久」→「元治」に改元する際には「令徳」を二度提案し、「元治」→「慶応」に改元する際には「平成」を提案するなど、高辻が元号の候補を提案した記録があると伝えられる。
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