<神皇系氏族>天孫系

SW08:五条高長  土師身臣 ― 菅原古人 ― 菅原道真 ― 高辻是綱 ― 五条高長 ― 本阿弥妙本 SW12:本阿弥妙本


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本阿弥光悦 本阿弥光甫

 刀剣の鑑定,研磨,浄拭を家業とする京都の本阿弥光二の長男として生まれる。父・光二は、元々多賀高忠の次男・片岡次大夫の次男で、初め子がなかった本阿弥光心の婿養子となったが、後に光心に実子(8代当主・光刹)が生まれたため、自ら本家を退き別家を立てた。光悦もこうした刀剣関係の家業に従ったと思われるが、残された手紙の中には刀剣に触れたものは殆どみられない。京ではむしろ「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また、陶芸,漆芸,出版,茶の湯などにも携わったマルチアーティストとしてその名を残す。
 光悦は、洛北鷹峯に芸術村(光悦村)を築いたことでも知られる。元和元年(1615年)、光悦は、徳川家康から鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆・職人などの法華宗徒仲間を率いて移住した。王朝文化を尊重し、後水尾天皇の庇護の下、朝廷ともつながりの深かった光悦を都から遠ざけようというのが、家康の真の意図だったとも言われるが定かではない。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。光悦の墓地も光悦寺にある。
 俵屋宗達,尾形光琳とともに、琳派の創始者として、光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きい。陶芸では常慶に習ったと思われる楽焼の茶碗、漆芸では装飾的な図柄の硯箱などが知られるが、とくに漆工品などは、光悦本人がどこまで制作に関与したかは定かではない。

 本阿弥光悦の養子・光瑳の子。空中斎と号した。家業である刀の磨礪,浄拭,鑑定の三業を行うかたわら、祖父・光悦にならって茶の湯,作陶,絵画など多才な芸術活動を行った。作陶では手捏ね内窯の楽焼を行い、空中信楽とも呼ばれる信楽風の作品も多く、楽茶碗には「寒月」「侘人」、信楽写しの茶碗には「不二」「武蔵野」などがあり、また信楽写しの桐文水指などが代表作。尾形光琳・乾山(深省)の生家・雁金屋とは姻戚関係にあり、光悦より伝わった楽焼の陶法伝書を尾形権平(深省)に授けたとの伝えもある。光悦の生涯を中心とする本阿弥家の家記『本阿弥行状記』3巻本の内、光悦について記した上巻は光甫の作とされる。法橋となり、寛永18(1641)年には法眼に叙せられた。 
佐野紹益

 灰屋紹益とも。江戸時代前期の京の町衆・歌人・蹴鞠家・茶人。本名は佐野重孝。本阿弥光益の子として京に生まれ、幼くして灰屋紹由の養子となる。
 諸芸に通じており、なかでも和歌を烏丸光広,松永貞徳,飛鳥井雅章、蹴鞠を飛鳥井家、茶の湯を金森宗和等に師事して修めていた。 また、これらを介して当代の主要な文化人達との間に広い人脈を有しており、大叔父にあたる本阿弥光悦をはじめとする他の町衆に留まらず、後水尾天皇や八条宮智忠親王等の皇族、徳川光友等の大名とも親交があった。
 妻に六条三筋町の名妓であった吉野太夫(2代目)を迎えており、その身請けをめぐっては近衛信尋と競い勝ったとされる。
 著書『にぎはひ草』 は、随筆文学の傑作といわれる。
 元禄4年(1691年)11月12日没、享年82。墓は立本寺にある。