刀剣の鑑定,研磨,浄拭を家業とする京都の本阿弥光二の長男として生まれる。父・光二は、元々多賀高忠の次男・片岡次大夫の次男で、初め子がなかった本阿弥光心の婿養子となったが、後に光心に実子(8代当主・光刹)が生まれたため、自ら本家を退き別家を立てた。光悦もこうした刀剣関係の家業に従ったと思われるが、残された手紙の中には刀剣に触れたものは殆どみられない。京ではむしろ「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また、陶芸,漆芸,出版,茶の湯などにも携わったマルチアーティストとしてその名を残す。 光悦は、洛北鷹峯に芸術村(光悦村)を築いたことでも知られる。元和元年(1615年)、光悦は、徳川家康から鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆・職人などの法華宗徒仲間を率いて移住した。王朝文化を尊重し、後水尾天皇の庇護の下、朝廷ともつながりの深かった光悦を都から遠ざけようというのが、家康の真の意図だったとも言われるが定かではない。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。光悦の墓地も光悦寺にある。 俵屋宗達,尾形光琳とともに、琳派の創始者として、光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きい。陶芸では常慶に習ったと思われる楽焼の茶碗、漆芸では装飾的な図柄の硯箱などが知られるが、とくに漆工品などは、光悦本人がどこまで制作に関与したかは定かではない。
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本阿弥光悦の養子・光瑳の子。空中斎と号した。家業である刀の磨礪,浄拭,鑑定の三業を行うかたわら、祖父・光悦にならって茶の湯,作陶,絵画など多才な芸術活動を行った。作陶では手捏ね内窯の楽焼を行い、空中信楽とも呼ばれる信楽風の作品も多く、楽茶碗には「寒月」「侘人」、信楽写しの茶碗には「不二」「武蔵野」などがあり、また信楽写しの桐文水指などが代表作。尾形光琳・乾山(深省)の生家・雁金屋とは姻戚関係にあり、光悦より伝わった楽焼の陶法伝書を尾形権平(深省)に授けたとの伝えもある。光悦の生涯を中心とする本阿弥家の家記『本阿弥行状記』3巻本の内、光悦について記した上巻は光甫の作とされる。法橋となり、寛永18(1641)年には法眼に叙せられた。 |