<藤原氏>北家 真夏流

F324:烏丸豊光  日野資業 ― 日野実綱 ― 日野有信 ― 日野資長 ― 日野資宣 ― 日野資名 ― 烏丸豊光 ― 勘解由小路資忠 F324:勘解由小路資忠

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勘解由小路資忠 勘解由小路光宙
 権大納言・烏丸光広の子で勘解由小路家の祖。正保元年(1644年)、藤原北家日野流・勘解由小路家を興した。男子に恵まれず烏丸光雄(烏丸資慶の子)の子の韶光を養子とした。

 文政元年(1818年)6月に資善夫妻の養子となり、翌月叙爵を受ける。翌文政2年(1819年)に元服して昇殿を許されて遠江権介に任ぜられる。中務権大輔,皇太后宮少進などを歴任して、天保12年(1841年)12月22日に従三位に叙せられる。弘化2年(1845年)に正三位に叙せられるが、文久2年(1862年)に正三位非参議のまま55歳で死去。男子がいなかったため、裏松恭光の4男である資生が光宙の婿養子として跡を継いだ。
 天保2年(1831年)から死去の年までの30年間の日記『光宙卿記』の存在が知られている。

勘解由小路資淳

 出生時の名は松村淳二。大分県知事や貴族院勅選議員を務めた松村義一の次男であり、戸籍上の父である勘解由小路資承は母方の祖父にあたる。
 母の松村好子は子爵・勘解由小路資承の長女であり、副島種臣の外孫でもあった。資淳は平民の家に生まれたため、跡継ぎの居なかった勘解由小路子爵家を襲爵するにあたり、一旦は勘解由小路家と同じ子爵位を持ち親戚にも当たる武者小路実篤の養子となった後に、勘解由小路家へ入った。