応永33年(1426年)元服し、従五位下に叙爵する。その後、世職である民部少輔,主殿頭,造東大寺次官を歴任。康正元年(1455年)従四位下、寛正6年(1460年)正四位下と昇進し、応仁2年(1468年)左大史に任ぜられ、父・壬生晨照のあとを受けて官務・小槻氏長者となった。 応仁の乱では西軍側につく一方で、文明4年(1472年)東軍側に与していた嗣子・壬生雅久に官務職を譲り、官務に精通していた晴富は雅久を助けて家職を守った。 文明14年(1482年)正四位上に至り、延徳2年(1490年)小槻氏で初めて八省卿となった大宮長興に次いで、壬生家として初めて治部卿に任ぜられた。 父・晨照に続いて同族の大宮長興とは官務・氏長者職を争ったほか、氏長者領である近江国雄琴・苗鹿両荘に関する相論を行い家領の確保に努めるなど、大宮家に対抗して壬生家の地位の維持に腐心した。また、応仁の乱で官文庫を喪失した大宮長興に対して、晴富は家訓を作成して文書の保存管理を図るとともに、室町幕府の援助を取り付けたほか、延徳2年(1490年)には宗祇から1000疋の寄附を受けるなどして、官文庫の維持に成功し相伝の文書を守っている。明応6年(1497年)卒去。享年76。 著作として『続神皇正統記』『建武三年以来記』があったほか、日記『晴富宿禰記』が伝わっている。
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天正14年(1586年)元服し、正六位上に叙せられ、左近衛将監兼中務大丞六位蔵人に任ぜられ、禁色昇殿を許される。慶長6年(1601年)算博士を兼ね、慶長8年(1603年)従五位下に叙爵し、右大史に任官する。 その後、4歳年下で地下家としての家格も劣るが江戸幕府の信任が厚い蔵人所出納・平田職忠に昇進面で後塵を拝し、さらには職忠が蔵人方地下官人を統率する催官人の地位に抜擢されたことから、孝亮はそれまで官務・壬生家の支配下にあった内蔵寮など多数の官人の支配権を失ってしまった。 これに対して孝亮は強く反発し、ついに寛永11年(1634年)官務・壬生孝亮と出納・平田職忠との間の相論に発展する。孝亮は近年出納が諸社に対する官幣を行い、陣儀に参仕していることは旧儀に反すること、出納は凡卑の家柄に比して身分不相応の知行を得るだけでなく、衣冠束帯まで身に付けて両局(局務押小路家・官務壬生家)と並肩しているのは違乱であると主張した。なお、出納平田家は催官人として職掌面では両局と同格であったが、伝統的な公家社会では孝亮が唱えたように出納を「凡卑」と捉える考え方は依然として強く、「地下官人之棟梁」として認識されていた両局に比べて平田家は下位とみなされていた。これに対して、職忠は現在の出納の職掌・待遇は慶長年間以降の新儀であることは認めた上で、これは徳川家康が朝廷再興のために定めたことであり、局務や官務はこれに従うべきであると反論した。この相論は摂政・一条兼遐や京都所司代・板倉重宗らによって審議されるが、途中で孝亮は売官問題が発覚して解官・追放となってしまう。結局、当主であった孝亮の失脚により、壬生家は出納としての職掌・待遇を認めざるを得なくなる一方で、平田家は家格では両局から一歩引くという形で収束した。 承応元年(1652年)10月8日卒去。享年78。
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