保元3年(1158年)ごろ左少史に任ぜられるが、応保元年(1161年)兄・小槻永業の摂津守辞任と引き替えに佐渡守として地方官に転じ、史巡に与るために積み重ねていた官史としてのキャリアを止められてしまう。 長寛2年(1164年)12月に永業が病に伏し、死の床で大夫史,算博士,大炊頭,佐渡国を知行するための文書などを子息の広房に譲った。しかし、強行に進められたこの相続に対して、隆職は異議を挟む。結局、二条天皇の指示によって、翌長寛3年(1165年)正月に隆職が左大史に、広房が算博士に任ぜられた。ここで小槻氏は大夫史を受け継ぐ隆職流(のち壬生流)と算博士を受け継ぐ広房流(のち大宮流)に分裂した。 隆職は治承4年(1180年)安徳天皇の大嘗会では悠紀行事を務めた。しかし、次々と兼官を帯びていた兄・永業に比べて官職には恵まれず、隆職は永業から大夫史を継承することはできたが、永業が任官のために駆使していたと想定される人脈までは引き継ぐことができなかったとみられる。一方で、隆職は大夫史の立場を利用して、その経済基盤となる官厨家便補保の開発・立保を精力的に行っている。大夫史として官方を統制することに専念。多くの便補地を整備するとともに、六位官人を編成してこれを経営した。こうして、隆職は官文殿,官務文庫という情報面、官厨家領をはじめとする経済面、六位官人を編成した人事面など、多角的に主導権を掌握することで、初めて壬生流小槻氏による官方主宰を実現したと評価される。 文治元年(1185年)10月に源義経が源頼朝に対して謀反を起こして後白河法皇から頼朝追討の院宣を得るが、隆職はこの院宣の奉行を行った。しかし、義経の謀叛は失敗して11月に都落ちする。12月になると頼朝は高階泰経ら親義経派の公家を解官し、隆職も院宣を奉行した責任を問われて左大史を解かれ、甥の小槻広房が代わりにこれに就いた。この処分に対して、隆職は自ら開発を手掛けてきた官厨家便補保や官文書の引き渡しを拒むなど、激しい抵抗を示している。文治2年(1186年)9月から隆職はほとんど京都に姿を現さないことから、大夫史を離れている間に各地へ赴いて、家人とともに所領の開発指揮を執っていた可能性もある。 建久2年(1191年)5月に頼朝の朝政干渉を快く思わない後白河法皇の指示により広房に代わって左大史に還任する。還任後も便補保の拡大に取り組み、新たに常陸国石崎保,加賀国北嶋保,備前国日笠保,安芸国世能保の四ヶ所を加え、若狭国国富保,近江国細江保,世能保の三ヶ所を立券している。 摂関を務めた九条兼実から職務能力を高く評価され、兼実執政下で記録所寄人を務めるなど、兼実の政権運営に参画した。また、兼実家の家司も務めている。 なお、隆職は長兄・小槻師経の子息である顕綱を猶子とした。これは、広房に対抗するにあたって正当性を得るために、顕綱を猶子として取り込むことで、自らを嫡子であった師経の後継者と位置づけようとしたものとも考えられる。 建久9年(1198年)10月に病気のために所帯の官職を子息の国宗に譲ることを請願して許され、同月29日卒去。享年64。
|
建長4年(1252年)兄・小槻淳方が没したことから、後を継いで左大史に任ぜられ大夫史となる。その後、30年近くに亘って大夫史の地位を占め、この間、穀倉院別当,記録所勾当,修理東大寺大仏長官も務めたほか、能登介,豊前守を兼ねた。また、後嵯峨上皇や後深草上皇の上北面にも仕えている。 一方で、文永元年(1264年)大宮流の小槻秀氏が左大史に任ぜられ、有家は大夫史として肩を並べられている。また、かつて有家の曾祖父・小槻隆職や祖父・小槻国宗が開発した官厨家便補保(太政官厨家領)について、大宮流の小槻季継が朝廷の宣旨を得て次男の小槻朝治に譲与していた。文永4年(1267年)有家はこの所領は大宮流に相伝されるべきものではなく、官務に知行されるべき旨を訴え出ているが、認められなかったと想定される。文永10年(1273年)この相論の終結に当たって、有家と朝治は以下内容で『小槻有家・朝治連署起請文』を作成し、小槻氏の中で永業流(大宮流)と隆職流(壬生流)の優越を宣言し、この両流にのみ官務職・相伝文書の独占的継承を認めた。 氏寺の法光寺および常林寺とその寺領を氏長者に知行する所領とする。この所領を支配する氏長者は、大炊頭・小槻永業と伊賀前司・小槻隆職両流の後胤のうちで位次が上でかつ文書を相伝し顕職(=官務)に就いている者とする。 また、有家は同時に『小槻有家起請』を作成し、壬生流の中においても文書・所領を有家の子孫に単独相続することを定めた。この両通の置文は壬生・大宮両流が自家のあり方を明記したものであることから、これを官務家としての自覚的宣言・確立として評価し、文永10年(1273年)を壬生・大宮両家の分立の画期とされる。 有家は壬生流の発展のために、所領の管理整備に努めたほか、『小槻有家置文』3ヶ条を遺して官務としての心構えを記して子孫を諫めるなど、壬生流官務家の基礎を固めた。なお、有家は置文の中で特に文書・所領の保全の重要性を述べている。弘安3年(1280年)8月20日卒去。
|
正安2年(1300年)父・統良が出家しまもなく没するが、千宣は若年であったためか大夫史を継ぐことはできず、大宮流の小槻伊綱が単独で大夫史の地位を占めた。 千宣は主殿頭などを経て、延慶4年(1311年)ごろ左大史に任ぜられて、大夫史は壬生(千宣)・大宮(伊綱)両流による2人体制となる。正和5年(1316年)伊綱が没したため、千宣が官務(左大史上首)となり単独の大夫史となった。文保元年(1317年)正五位上に叙せられ、能登介を兼ねたほか、修理東大寺大仏長官・記録所奉行も務めている。 元応元年(1319年)大宮流の小槻冬直が左大史に任ぜられ、再び大夫史は2人体制となる。元享2年(1322年)冬直に官務・氏長者の地位を譲り、翌元享3年(1323年)卒去した。なお、この年に子息の匡遠が大夫史に任ぜられている。
|
従五位下に叙爵後、民部権少輔・主殿頭を経て、永享7年(1435年)左大史に任ぜられ、先任の左大史であった大宮長興を越えて官務小槻氏長者となる。その後、晨照は永享11年(1439年)従四位上、文安2年(1445年)正四位上と昇進するが、この間に長興が官務氏長者の人事について室町幕府に直訴した結果、文安2年(1445年)2月に長興が官務小槻氏長者となる。晨照はこれに強く反発し、11月には氏長者・官務の地位を奪い返すが、これ以後、壬生晨照と大宮長興との対立は久しく続くことになる。 宝徳元年(1449年)に官務氏長者が壬生晨照から大宮長興に移るが、晨照は長興との間で官務・氏長者の地位や氏長者の領地をめぐって相論を繰り返し、壬生家側の主張を認めさせ、寛正6年(1465年)には再び官務氏長者を大宮長興から取り戻した。応仁2年(1468年)6月19日卒去。
|
京都の地下家の官人・壬生家(小槻氏)から出たとされる。この出自に確証はなく、胤業は毛野氏族の壬生氏(壬生公)の後裔という説もある。下野宇都宮氏の一族であり、横田氏庶流の壬生朝業の末裔とも考えられている。 公家でありながら武芸を好み、諸国に下向した末に寛正3年(1462年)に下野で壬生氏を興したとされる。壬生城を築き本拠とし、以後の壬生氏発展の礎を築いた。下野宇都宮氏に従属した。 また、壬生町に鎮座する雄琴神社は、胤業が小槻氏の氏神である近江国雄琴の雄琴神社より勧請して合祀し、同名に改めたものとされる。
|
主君・宇都宮忠綱の命で鹿沼氏を攻略し、鹿沼の支配を任され鹿沼城を本拠とする。しかし、宗長の日記によると永正6年(1509年)の時には既に壬生氏の鹿沼地方への進出が読み取れる事や、綱重の没するまでは、忠綱の父・宇都宮成綱が隠居の身ではありながら実質的な主君であったため、成綱の命で鹿沼を攻略した可能性も十分にある。また、「皆川正中録」では、壬生氏が鹿沼を治めたのは大永3年(1523年)の河原田合戦以降であるとされているがその時には綱重は没しており、どちらが正しいかは不明である。壬生城には、嫡男・綱房を置いた。 永正6年(1509年)には、白河の関を見ようと下野に立ち寄った連歌師・宗長を鹿沼の館に招いて連歌会を開いた。その際に宗長は同年齢である綱重に親しみを込めて歌を詠んでいる。永正9年(1512年)に宇都宮成綱と芳賀高勝の対立によって宇都宮錯乱が起こると、綱重は成綱に協力し、乱を鎮めるのに貢献し、宇都宮氏の重臣としての地位を獲得した。その後も順次勢力を拡大し、日光山領の支配権も手中に収めたという。永正13年9月17日(1516年10月12日)、死去。享年69。
|