<藤原氏>北家 真夏流

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日野有信 日野実光

 文章生,文章得業生を経て対策に及第し、康平8年(1065年)後冷泉天皇の六位蔵人に補せられる。治暦4年(1068年)後冷泉天皇の崩御に伴って蔵人を去るが、同年従五位下に叙爵した。白河朝では、実仁親王の東宮学士を務める。
 堀河朝に入ると、兵部権大輔,左衛門権佐を務めたのち、寛治6年(1092年)右少弁に任ぜられる。その後は寛治8年(1094年)左少弁、承徳2年(1098年)右中弁と弁官を歴任し、承徳3年(1099年)正月に従四位下至る。この間、中宮大進として、中宮・篤子内親王に仕えたほか、藤原師通や藤原全子など摂関家の家司も務めている。
 康和元年(1099年)7月11日卒去。享年60。

 

 寛治5年(1092年)文章得業生になる。因幡権掾,縫殿助,右衛門少尉を歴任し、康和2年(1100年)従五位下に叙爵。勘解由次官,右衛門権佐,右少弁,防鴨河使を歴任。天仁3年(1100年)左衛門権佐に任ぜられる。周防介を兼任し、天永2年(1111年)正五位下に陞叙。永久3年(1115年)左少弁に進み、保安元年(1120年)近江守に任ぜられる。勧学院別当,右中弁を歴任し、保安4年(1123年)従四位上・左中弁に叙任される。天治2年(1125年)には正四位下に昇り、大治5年(1130年)右大弁となる。天承元年12月(1132年1月)参議に任ぜられて、左大弁,勘解由長官を兼ねる。翌年には美作権守も兼任。
 長承3年(1134年)従三位・大宰大弐に叙任。保延2年(1136年)権中納言,大宰権帥に進む。保延5年(1139年)正三位に昇り、保延6年(1140年)従二位に至る。
 康治2年12月(1144年1月)中納言を辞し、翌年出家。久安3年(1147年)薨去。享年79。

日野尋有
 親鸞の弟。幼くして比叡山に登って出家した。弘長2年(1262年)に親鸞が死去した場所は尋有の住坊「善法坊」と伝えられている。善法坊跡地は現在は京都市立柳池中学校の敷地内になっており、明治21年(1888年)に「見真大師遷化之旧跡」の石碑が建立されている。