<藤原氏>北家 真夏流

F308:藤原濱雄  藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原内麻呂 ― 藤原真夏 ― 藤原濱雄 ― 日野資業 F312:日野資業

 

リンク F313
日野資業 日野実政

 右大臣・藤原内麻呂の孫の家宗が9世紀に日野に居住し、家宗がこの地に開いた法界寺に5代孫の資業が11世紀半ばに阿弥陀堂や薬師堂などを建立し薬師如来像をここに移し、一族の氏寺とした。これを機に資業は「日野三位」を名乗るようになり、これ以降、日野が家名となった。
 資業は平安中期の官人。法名は素舜。蔵人ほか京官を歴任したのち播磨,伊予などの地方官を務めた。極官は従三位非参議。和歌,文章道にすぐれ文章博士となり、後一条天皇の侍読を務めた。

 藤原資業の3男として生まれる。文章博士であった父と同様に学問の道を歩み、長暦元年(1038年)文章得業生となり、次いで対策に及第し、長久2年(1041年)に六位蔵人となる。長久3年(1042年)には後朱雀天皇の第二皇子・尊仁親王(後の後三条天皇)読書始で尚復(侍読が読んだ内容を復唱する役割)を勤めた。永承5年(1050年)に東宮・尊仁親王の学士となり、敦成親王(後一条天皇)の侍読を勤めた父・資業に続いて、親子二代で侍読となった。
 東宮学士・実政に対する尊仁親王の信頼は厚く、天喜元年(1053年)、東宮御息所・藤原茂子が第一皇子・貞仁親王(後の白河天皇)を生んだ際には、実政の姉妹(藤原惟経の妻)が乳母の一人となっている。 また、康平7年(1064年)に実政が甲斐守に任じられ任国に下向する際、尊仁親王から、任国に行っても都のことひいては私のことを忘れないで欲しい、との趣旨の御製が贈られた。
 治暦4年(1068年)、尊仁親王が後三条天皇として即位したことに伴い、実政は前東宮学士の労により正四位下に昇進した。翌治暦5年(1069年)には、同じく尊仁親王の学士であった大江匡房とともに新東宮貞仁親王の学士に任じられ、尊仁・貞仁と二代続けて東宮学士を勤めることとなる。
 後三条天皇が即位してからも、その信頼は変わらず、延久4年12月(1073年)には左中弁へ抜擢された。実政が左中弁となった直後、後三条天皇は貞仁親王(白河天皇)に譲位し院庁を開くと、実政は院庁別当となるが、まもなく後三条院は崩御した。次代の白河天皇も恩師である実政を厚遇し、承保4年(1077年)に蔵人頭、承暦4年(1080年)には参議・従三位と順調に昇進する。
 永保4年(1084年)実政は大宰大弐に任ぜられ、大宰府へ下向する。大宰府では九州最大の荘園領主であった宇佐八幡宮との間に紛争が発生したらしく、寛治元年(1087年)、宇佐八幡宮の神人から白河院御所に対して、実政が正八幡宮神輿を射て毀損したとの訴えがあり、翌寛治2年(1088年)に実政は大宰大弐を辞して上洛した。結局、同年11月に実政は伊豆国への流罪と決定、併せて息子・敦宗も連座し左少弁を解官された。その後、実政は配流途中の近江国で出家したが許されず、寛治7年(1093年)伊豆国の配所で薨去した。

日野敦宗

 文章生,文章得業生を経て、後三条天皇の六位蔵人を務める。
 白河朝にて式部権大輔,左衛門権佐,文章博士を歴任。応徳元年(1084年)左少弁に任ぜられる。寛治元年(1087年)堀河天皇が即位すると、儒者として式部大輔・藤原正家と共に昇殿を聴される。しかし、翌寛治2年(1088年)父の大宰大弐・藤原実政が宇佐八幡宮に訴えられて伊豆国への流罪となると、敦宗も連座して左少弁を解官された。
 承徳2年(1098年)式部少輔に任ぜられ官界に復帰。承徳3年(1099年)従四位下に叙され、大学頭・東宮学士を歴任し、嘉承2年(1107年)鳥羽天皇の即位に前後して正四位下に至る。天仁元年(1108年)丹波守に任ぜられた。
 天永2年(1111年)9月16日卒去。享年70。卒去にあたって、権中納言・藤原宗忠から「才智頗勝傍輩、可謂名儒歟」と評された。また、漢詩人としても活躍。『本朝無題詩』『本朝続文粋』などに作品が収められている。